海外輸出や現地醸造により、世界中で「SAKE」としての認知が拡大してきている日本酒。そんな日本酒の海外進出の歴史を追った展示「酒からSAKEへ」が、2022年3月6日(日)まで、兵庫県西宮市の白鹿記念酒造博物館で行われています。

白鹿記念酒造博物館の展示「酒からSAKEへ」のポスター

日本酒が初めて海外へ渡ったきっかけはどのようなものだったのでしょうか。戦前・戦後の紆余曲折を経て、現地での消費はどのように変化してきたのでしょうか。その変遷を学んでいきましょう。

「白鹿」が設立した博物館

訪れたのは、「白鹿」の銘柄でおなじみの兵庫県西宮市の酒蔵・辰馬本家酒造が設立した白鹿記念酒造博物館。通称「酒ミュージアム」と呼ばれるこの博物館は、1982年に開館して以来、酒造りにまつわる資料のほか、季節ごとのテーマに基づいた展示を行っています。

白鹿記念酒造博物館の外観

「日本酒の文化はどんどんアップデートされていくので、原点となる資料を残しておく場所が必要だという理由で建てられました。辰馬家が所有する美術品を公開する場としても機能しているほか、夏は子どもに親しみがあるテーマ、秋は行楽シーズンに関係するテーマなど、季節に応じた展示を行っています」

そう話してくれたのは、同館の学芸員である大浦和也さんです。酒ミュージアムは、酒蔵が設立した博物館としては珍しく、博物館の専門職である学芸員を雇用。企画ごとに専門家の視点から詳細な調査・研究を行い、展示を通してディープな情報を提供しています。

そんな白鹿記念酒造博物館にて、2021年12月9日(木)から2022年3月6日(日)までの期間限定で開催されているのが、酒資料室展示「酒からSAKEへ」です。日本酒が「SAKE」として世界へ広まるに至った海外展開の歴史を、大浦さんの解説つきでご案内いただきました。

日本酒の海外進出は、"ほろ苦"のスタート

日本酒の海外輸出の契機と考えられているのは、明治時代にヨーロッパで開催されていた万国博覧会。日本酒は1878年(明治11年)の第3回パリ万博に初めて登場しますが、その評価は「害アリテ益ナシ」と悲惨なものでした。「(審査官の中には)口にした途端に吐き出す人もいた」という記録も残っているほどです。

当時のヨーロッパにとって、極東の日本は劣等国。万博に初めて現れた日本酒は、東洋の無名の国から送られてきた得体の知れないアルコールだったのです。しかし、大浦さんは「この酷評には別の理由もあったのではないか」と分析します。

パリ万博 出品記念賞状

第4回パリ万国博覧会 SAKE出品記念賞状

それがわかるのが、1889年(明治22年)の第4回パリ万博において、辰馬本家酒造が出品した際の引受証の但し書きです。

「この引受証には、『但し箱のまま/12個』と書かれています。当時はまだ瓶が普及していませんでしたから、一升サイズの小さな樽を12個、木箱に入れて送ったということです。ヨーロッパまでの船便ですし、現在のように品質変化に関する知識もほとんどなかった時代ですから、お酒に木香がつき過ぎてしまい、味や香りが相当変わってしまっていたとも考えられます」

出品委託引受証

第4回パリ万国博覧会の出品委託引受証

1900年(明治33年)の第5回パリ万博では、同じ兵庫県の大関をはじめとした複数の酒蔵が合同で出品しました。

「酒舗(しゅほ)と呼ばれる店舗を会場に設け、お酒の販売を行いましたが、あまり人気がなかったようです。予算書を読むと、当初予定していた日数よりも早めに閉じてしまい、そのあとは菊の展示に変わったことがわかります」

世界に日本酒を知ってもらうために参加した万博でしたが、複数回にわたる参加を経ても、なかなか受け入れられることはありませんでした。大浦さんが「ほろ苦のデビューだったのかもしれません」と話すように、その黎明期は世界市場の厳しさに直面するものだったのです。

日本酒輸出の歴史は、移民の歴史

一方、同じころにアジアへの輸出が始まります。300年にわたる鎖国を終え、世界へ向けて開国した明治時代、日本には各国の産品が大量に輸入されました。

対して、輸出できる品物が限られていた日本で、当時生産量がもっとも多い農産物だった米から造られる日本酒は、輸出品目として有力な選択肢のひとつとなります。

この流れを受けて、明治20年代に全国トップの造石高を誇っていた辰馬本家酒造は、国外の市場開拓に着手。シンガポール、ウラジオストク、バンクーバー、天津などに見本品を送った記録が残っています。このように輸出先を模索した中でも、海外輸出の礎となったのは台湾でした。

台湾に向かう日本郵船「朝日丸」へ清酒「白鹿」積み込みの様子

台湾へ向かう日本郵船「朝日丸」へ清酒「白鹿」を積み込んでいる様子

「日清戦争で日本が清国(当時の中国)を破ったことで、台湾を日本に割譲する下関条約が結ばれました。これによって日本から多くの人々が台湾へ移り住み、現地での日本酒需要が生まれたのです」

しかし、当時、日本の進出に対する現地の人々からの反発は強く、山賊も出没するような治安の悪い中での冒険的なスタートとなった台湾への進出。そうした逆境にも負けず、辰馬本家酒造は、台湾に4つの販売拠点を設立します。

台湾以外にも中国大陸に拠点を置き、朝鮮半島でも取引先を開拓。そのほか、当時フランス領だったニューカレドニアにも輸出の形跡が残っていますが、これは現地の鉱山で働く日本人労働者への需要に応えたもののようです。

台湾で販売されていた白鹿のラベル

台湾で販売されていた清酒のラベル

大浦さん曰く、「戦前の日本酒輸出の歴史は、移民の歴史」。あくまでも、現地に移住した日本人向けの輸出であり、「現地の人にはほとんど消費されていなかった」と言います。

しかし、こうしたアジア各国での展開は、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)にわたる太平洋戦争によって終止符が打たれます。

敗戦国の在外資産はすべて没収されてしまうため、日本酒の海外進出の成果は、戦後、ふりだしへ戻るかたちとなりました。日本国内でも、空襲の被害や政府意向の合併により、酒蔵の数が大きく減少した時代でした。

日系移民に向けた、アメリカへの輸出

日本からの移民はアメリカにもいましたが、1920年(大正9年)から10数年のあいだは禁酒法が施行されていたため、日本からお酒が送られることはありませんでした。

1933年(昭和8年)の禁酒法の解禁とともに清酒の輸出がスタート。その販売の礎となったのが、ワシントン州のシアトルに本拠地があった古屋商店です。現地の日系移民のために日本の商品を輸入販売していた同店では、辰馬本家酒造をはじめ、日本のさまざまな酒蔵のお酒を取り扱っていました。

古屋商店に関する資料

古屋商店に関する資料

「古屋商店は業績が良く、納税額が高かったため、アメリカの酒類管理局に表彰されるほどでした。これを受けて、辰馬家が酒類管理局に『古屋商店を表彰してくれてありがとう』とお礼を伝えた手紙も残っています」

アメリカだけではなく、カナダへの流通も代行するなど、国外を拠点とした貿易商として活躍した古屋商店。しかし、太平洋戦争が始まったあと、どんな末路を迎えたかは謎に包まれています。

「太平洋戦争で、日本はアメリカと戦いましたが、アメリカ現地で暮らす移民は敵勢国家だという理由で収容所送りになったのです。古屋商店の人々も収容されてしまった可能性が高く、商売を続けられたかどうかはわかっていません」

そのほか、展示室には小西酒造が代表銘柄の「白雪」をアメリカへ向けて輸出する際の写真や、沢の鶴が輸出していたブリキ缶入り日本酒の写真、当時の輸出を担っていた日本郵船の航路マップや、輸送に使われた汽船の図解などが展示されています。

大正5年当時の日本郵船の航路図

大正5年当時の日本郵船の航路図

「日本郵船は1916年(大正5年)の時点で、神戸や横浜からシアトル、ニューヨーク、ヨーロッパにいたる航路を確保しており、船に積めば世界のあらゆるところへ届けられる状況が整っていました」

需要拡大を受けて、海外での現地醸造を開始

1945年(昭和20年)、日本は第二次世界大戦にて敗戦しますが、その3年後である1948年(昭和23年)には日本酒の輸出を再開した記録が残っています。

「戦前と戦後の違いは、日本からの移民だけではなく、現地の方々が和食といっしょに日本酒を飲むようになったこと」と、大浦さん。需要拡大を受けて、国内の酒造メーカーによる海外での現地醸造が始まります。

その先駆けとなったのが大関です。同社は1979年(昭和54年)、カリフォルニア州ホルスターにいち早く醸造所を設立しました。展示室には、大関の協力のもと集められた写真資料のほか、当時を知る人によるコメントも展示されています。

アメリカ・カリフォルニア州に建てられた「大関」の現地醸造所

カリフォルニア州に設立された、大関の現地酒蔵に関する資料

当時から米の名産地だったアメリカのカリフォルニア州。大関に続き、宝酒造、ヤヱガキ酒造、月桂冠が進出しましたが、1992年(平成4年)にアメリカ進出を図った辰馬本家酒造が選んだのは、カリフォルニア州ではなくコロラド州でした。

「他社がすべてカリフォルニア州へ進出したので、差別化しようということでコロラド州が選ばれました。ロッキー山脈の麓で良質な水が手に入るので、宣伝文句になると考えたのです。

しかし、標高が1,500メートルなので沸点が低く、蒸米がうまくできるか不安がありました。現地調査のときに、カセットコンロを持ち出して屋外で蒸していたら、現地の人にすごく不審がられたそうです(笑)」

当時のパンフレットには、商品紹介とともにSAKEを使ったカクテルなども提案されていて、現地の人々へSAKEを浸透させるための工夫が見てとれます。

「HAKUSHIKA SAKE U.S.A」の商品パンフレット

HAKUSHIKA SAKE U.S.Aの商品パンフレット

しかし、8年後の​​2000年(平成12年)に、コロラド工場は閉鎖。もっとも大きな理由は、その5年前の1995年(平成7年)に起きた阪神・淡路大震災でした。

「日本国内の状況が良くなかったので撤退しましたが、戦争のようにすべてがリセットされるようなことはありませんでした。

アメリカの工場のシステムや知見はいまも国内の蔵に受け継がれていますし、当時開拓した現地のお客さんが、国内から輸出される『白鹿』をいまだに飲み続けてくれています。そうした意味で、アメリカへ進出した意味は大きかったと言えますね」

白鹿記念酒造博物館の様子

そのほかの海外醸造の事例として、奈良県の中谷酒造が中国に設立した天津中谷酒造有限公司も紹介していただきました。「農薬をできるだけ使わないよう、カニを放って雑草を食べさせるため、収穫期は米とカニが両方取れる」といった、中国ならではの栽培方法も採用されているようです。

世界中で「SAKE」への評価が高まり、日本酒を世界へ広める動きがますます加速している現代ですが、その下地が築かれるまでには、先人たちによるたくさんの努力と失敗がありました。

日本の酒が世界のSAKEへ大きく進化しようとしているいまこそ、歴史を振り返り、これからの未来につながる知恵を学ぶことが求められているのではないでしょうか。

(取材・文:Saki Kimura/編集:SAKETIMES)

◎施設情報

  • 名称:「白鹿記念酒造博物館
  • 住所:兵庫県西宮市鞍掛町8-21
  • 開館時間:午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
  • 休館日:火曜(祝日の場合は翌日、連休に含まれる場合は連休明け休館)、年末年始・夏期休暇
  • アクセス:阪神電車「西宮駅」より徒歩15分。または、JR西宮駅南側より阪神バス「マリナパーク」行き乗車、「交通公園前」下車して徒歩1分。

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