2011年3月11日に起きた東日本大震災。宮城県沖を震源とするマグニチュード9の地震は、東北地方の太平洋沿岸を中心に大きな被害をもたらしました。多くの尊い命をはじめ、家屋や街並みが奪われ、その傷は今も癒えることはありません。
それぞれの地元で長い歴史を刻んできた酒蔵にとっても例外ではなく、いくつもの蔵が移転や廃業を余儀なくされました。あれから10年。当時被災した酒蔵は、何を思い、酒造りを続けてきたのでしょうか。
逆境を乗り越え、未来への挑戦を続ける蔵を取材しました。今回は、岩手県盛岡市の赤武酒造です。
一度はあきらめた蔵の再建
「ようやくある程度の土台ができて、会社としての次のステップを考えながら作業できるようになってきました」
こう話すのは、赤武酒造の杜氏に就任して今年で7年目になる、古舘龍之介さん。震災が起こった当時、古舘さんは東京農業大学の1年生でした。1896年に創業した大槌(おおつち)町の蔵は、津波と火災で全壊してしまいます。
すべてを失った父の秀峰さんは「もう酒造りはできない」と、廃業を考えたと言います。しかし、その準備のために得意先へご挨拶をしているなかで、復活を望む声を多く聞きました。あたたかいことばに背中を押され、もう一度、酒造りに挑戦することを決意します。
ただ、酒蔵が全壊してしまった中で、醸造設備を貸してもらえる酒蔵はなかなか見つかりません。途方に暮れていた時、「いっしょにやろう」と手を差し伸べてくれたのは、盛岡市にある桜顔酒造でした。そのおかげで、2011年の冬も、地元の方々に赤武酒造のお酒を届けることができました。
その当時のことを、龍之介さんはこう話します。
「桜顔酒造の杜氏さんに酒造りを教えてもらいながら、いっしょに作業したと聞いています。当時の私はまだ大学生で、実家の経営にも関わったことがなく、力になれることがなかったので、学業を優先するしかありませんでした。父も自分の代で終わらせようと考えていたみたいで、実家には帰らなくてもいいと言われていたんです」
しかし、その後、状況は一変。国からの資金補助が得られることなり、諦めていた蔵の再建が叶うことになりました。ただ、地元・大槌町では、住宅の復興が優先されたため、盛岡市へ移転しての再スタートとなります。
こうして、「復活蔵」と名付けられた新蔵で、赤武酒造の新しい酒造りが始まったのです。
若者が手にとってくれるお酒
2013年秋に新しい蔵が完成した赤武酒造ですが、その蔵で造ったお酒を飲んだ龍之介さんは、あまりおいしいとは思えませんでした。
それもそのはず、慣れない真新しい設備に加え、蔵人のほとんどが盛岡市で新たに採用した未経験者ばかり。大槌町の蔵で働いてくれていた蔵人は、すでに次の生き方を考えて進んでいました。酒蔵の再建に時間がかかり過ぎてしまったのです。
「以前と同じものではなく、さらに進化したお酒を造りたい」という社長の思いはあったようですが、技術が追いついていませんでした。また、東京で学生生活を送り、話題の銘柄や最先端のトレンドに触れていた龍之介さんにとって、赤武酒造のお酒は飲みにくいと感じていたようです。
「当時、東京でよく飲んでいた、香り高くフルーティーな味が当たり前だと思っていました」
せっかく新しい蔵ができても、これでは勝負できない。そう感じた龍之介さんは、翌2014年に杜氏として赤武酒造に入社。どうせやるなら、地元銘柄の「浜娘」ではなく、新しいブランドを立ち上げたいという思いもあり、蔵の名前を冠した「AKABU」をリリースします。
新銘柄のテーマに掲げたのは、「若者が手にとってくれるお酒」でした。
「香りが良く、バランスの良い甘みがあって、かつフレッシュなお酒をイメージしました。若い世代に対して、どのようにアプローチすべきかを考えたんです」
さっそく、完成した新しい商品を持って飛び込みで営業に回った龍之介さん。そこで、若手の挑戦を応援してくれる方々との出会いが生まれました。多くの特約店でおすすめの日本酒として紹介してもらえたことで、口コミを通して、「AKABU」は日本酒ファンのなかで注目されていきます。
「『AKABU』の完成形を10割とすると、現在は8割くらいでしょうか。ただ、あとの2割を満たすためには、じっくりと時間をかけないとだめだろうとも感じています」
新しい銘柄を発売して今年で7年目。自身が造る日本酒にようやく合格点がつけられるようになったと、控えめに評価する龍之介さん。それでも、岩手県内の酒販店から、「『AKABU』目当ての若いお客さんが増えたよ」という話を聞き、確かな手応えを感じているようでした。
「ひとりでは酒造りはできない」
22歳の若さで杜氏となった龍之介さんは、当初、酒造り未経験の蔵人との働き方に悩んでいました。そのため、最初の1~2年は、寝る間もなく、ほぼひとりで酒造りに没頭していました。
しかしある時、「ひとりでは酒造りはできない」ということに気づきます。
「ひとりだと、製造の工程は手を抜かずに進められても、特に掃除の作業では、やりきれない部分が出てしまいます。酒造りは衛生面の管理がとにかく大事。より良いお酒を造るために、チーム全員で何をすべきか、メンバーたちにしっかりと伝えて、少しずつ作業に参加してもらうようにしました」
「AKABU」の評価が高まったことも、蔵人たちからの信頼を得るきっかけになったようです。自分たちの造るお酒が求められていると実感したことで、蔵の雰囲気が変わり、酒造りへのモチベーションアップにもつながりました。
「震災直後は、蔵の復興が目標でした。『復活蔵』が建ち、酒造りが再開できたことで、それは達成されました。次の目標は、これまで支えていただいた方々に恩返しする思いで、もっと良いお酒を造ることです。そう思えたことで新しいステージに立てたのかもしれません。岩手県を代表するお酒を造りたいと強く思い続けています」
復活ではなく次のステージを目指して
震災を機に大槌町から盛岡市へと拠点を移し、酒造りを再開した赤武酒造。特に、震災の直後は、復活した「浜娘」を多くの方々に飲んでもらえたそうですが、龍之介さんの中には少し複雑な気持ちもあったようです。
「震災で被災した酒蔵が造る『悲しいお酒』と受け取られることを避けたくて。『AKABU』にはそんなイメージをつけたくなかったんです。震災があったことは事実ですし、隠してもいないですが、お酒を手にとった人が最初に知るべき情報ではないだろうと」
地元・大槌町への思いは今も消えていません。被害の大きかった大槌町での酒蔵再建は叶いませんでしたが、長年、「浜娘」を大切に飲んでくれていた地元の方々も多く、「大槌町に恩返しをしたい」という気持ちが、龍之介さんの中には変わらずにあります。
「ただ復活させるだけでは、以前の状態に戻るのと同じこと。新しく蔵を立てるチャンスをいただいたので、これまでよりもさらに良いものを造りたいという思いは強くなりました。『浜娘』も今シーズンからブラッシュアップして、岩手県の地酒として再生していく予定です。新しい歴史を作っていきたいですね」
より良い日本酒造りを目指して、近年、赤武酒造が注力しているのが設備投資です。かつては、規模は小さくても手造りにこだわることを理想としていましたが、おいしい日本酒を広く飲んでもらうためには、適切な設備を導入していくことが欠かせないと言います。
また、蔵人の働き方改革にも積極的に取り組み、週休2日制はもちろん、酒造りのない期間には、長期休暇が取得できるようにしています。「人を育てるには、まず働く環境を整えること。つらい気持ちや不平・不満は、お酒の味に出てしまうので」と、ひとりでがむしゃらに造っていたころの反省が、今も活きているようでした。
積み上げてきた約120年の歴史の中で起こった大きな震災。危機的な状況だからこそ、たくさんの方々の応援があったからこそ、大胆な変化に挑戦できたのかもしれません。地元を離れ、蔵を一新し、若い造り手が醸すお酒は、新しい赤武酒造を象徴する存在です。
この10年間、龍之介さんは「やれることはすぐやる」を常に意識してきたそうです。
「震災を経験したことで『いつ何が起こるかわからない』という考えが、実感を伴うものになりました。現在、赤武酒造として酒造りが続けられていることは奇跡。そのことに感謝し、ひとつひとつの酒造りを無駄にしたくないからこそ、新しい挑戦や環境の改善に、スピーディーに取り組んでいます」
そして、そんな意識の変化が、赤武酒造の新しい歴史を作る上で重要なのかもしれないと語ってくれました。
新たな時代の流れに乗り、力強く進んで行く赤武酒造のこれからが楽しみです。
(取材・文:渡部あきこ/編集:SAKETIMES)