"酒造りの神様"や"伝説の杜氏"と評され、醸造家として70年近いキャリアをもつ農口尚彦さん。全国新酒鑑評会金賞などの華々しい成績とともに、数々の銘酒を生み出してきました。

一度、酒造りの現場から退いた農口杜氏ですが、昨年、地元である石川県に新設された「農口尚彦研究所」で杜氏としての再スタートを切りました。SAKETIMESでは、その新しいプロジェクトを連載でお届けしています。前回は、記念すべき最初の酒造りを通して、農口イズムが若き蔵人へ浸透していく様子を取り上げました。

今回は、"伝説の杜氏"の下でひと造りを経験した7人の若手蔵人のうち、4人に話を伺います。

次世代に継承されていく、レジェンドの技

取材を行なったのは「皆造(かいぞう)」と呼ばれる酒造りの最終日。農口尚彦研究所には、どこか安堵の空気が流れています。

農口尚彦研究所の外観

酒蔵の立ち上げから初めての出荷までを終えた蔵人たちに、この1年を振り返ってもらいました。食堂には4人の若手蔵人、そして、農口杜氏が集います。農口杜氏はまず笑みを浮かべ、蔵人たちを労いました。

農口尚彦研究所、若手蔵元と杜氏が鼎談している写真

「新しい蔵でのチャレンジだったので、酒造りに自分のカラーを出せるのか心配でした。神に祈るつもりで酒造りをしました。お客様からもご評価をいただき、ホッとしています。適材適所に配置したみんなが、言うことをちゃんと聞いてがんばってくれましたね」

全国各地から公募で集まった蔵人は、酒造りの経験もさまざま。寝食をともにしながら農口杜氏のそばで仕事をし、この1年で何を学んだのでしょうか。そして、『農口杜氏の酒造りにおける匠の技術・精神・生き様を研究し、次世代に継承すること』をコンセプトとして掲げる農口尚彦研究所で、"継承"はいかにして行なわれているのでしょうか。

農口杜氏を"おやっさん"と慕う彼らの言葉から、その一端を感じとることができました。

◎ご協力いただいた、4名の若手蔵人

  • 山崎さん:石川県出身。担当は頭(酒造りのリーダー)。
  • 小西さん:滋賀県出身。担当は麹。
  • 安田さん:大阪府出身。担当は酒母(酛)。
  • 宮崎さん:愛媛県出身。担当は原料処理(主に洗米と蒸米)。

出身も経歴もさまざまな蔵人たち

― 最初のシーズン、お疲れ様でした!みなさんは新蔵の立ち上げにあたって集まったメンバーですが、酒造りの道を志したのは、どんなきっかけでしたか?

山崎さん:もともと別の業種で働いていたのですが、、仕事への熱を感じなくなっている自分がいました。そんなときに「自分の好きな日本酒を造りたい」とあらためて思ったのがきっかけですね。

小西さん:日本酒を飲むのはもともと好きだったのですが、求職中にインターネットを見ていたら、たまたま日本酒造りの仕事を見つけたんです。「酒を造る仕事もおもしろそうだな」と思って、応募しました。

農口尚彦研究所の蔵人、安田さんの写真

酒母を担当する安田さん

安田さん:酒造りの道に入る前は飲食店で働いていました。店では日本酒をほとんど扱っていなかったのですが、逆に「何で扱わないんだろう?」と興味をもったんです。日本酒のイベントに行ったり自分で買って飲んだりしていたら、今度は造り方に興味が湧きました。別の蔵で造りを経験したら、もっと日本酒のことを知りたくなって、気がつけばこの道を選んでいました。

宮崎さん:大学4年生の時に農口酒造(農口杜氏が以前勤めていた石川県の酒蔵)でアルバイトをさせてもらい、酒造りのおもしろさと感動を知りました。その後、高知県の酒蔵に1年間勤めたのですが、酒造りの難しさと自分の不器用さを感じて退社してしまったんです。酒販店などの仕事を探していたタイミングで今回の立ち上げを耳にして、「あきらめる前にもう1年やってみよう」と決意して、おやっさんに申し出ました。

― ひと造りを終えてみて、今シーズンの造りで印象的だった出来事や、難しかったことはありましたか。

山崎さん:新しい酒蔵でゼロからのスタートで酒を造るのは、この先もう二度とない経験だと思いますね。蔵人をまとめる頭(かしら)に抜擢されたこともあって、期待よりも不安のほうが大きかったです。昨夏、おやっさんと顔合わせをしたときは、"鬼の農口"のイメージが強かったので、現場でいきなり怒られたらどうしようと......。

でも、いっしょに酒造りをしてみると、鬼どころか仏でした(笑)。何を質問しても優しく教えてくれるので、造りの知識がさらに深まりました。おやっさんの言うとおりに温度を管理し、米の溶け方などは日々細かく記録しています。自分用に写しを持っているので、後々の財産にしたいですね。

農口尚彦研究所の蔵人 山崎さん

蔵人をまとめるリーダー 山崎さん

小西さん:「日本酒の味や香りは麹で決まる」といわれますが、今期は酒造りの肝となる麹造りを任せていただいて、おやっさんの感覚を肌で感じることができたと思います。なによりも、おやっさんが麹造りを大切にし、吸水率などの数字を大事にしながら、感触も重視していることが勉強になりました。

たとえば、吸水率の数字が充分でも感覚的に蒸米が硬いと判断した場合は、あえて、常識的には高すぎるような吸水率にすることもありました。製麹の各段階で、その都度、麹の具合を確認している様子を見て、自分の五感で確かめることの大切さが身にしみましたね。

農口尚彦研究所の麹室での作業風景の写真

安田さん:自分が担当した酒母造りでいうと、びっくりしたのは"よく見る"ということです。おやっさんは「酒母の面を見よ」と、よく言います。表面がどういう状態かを見て、その後の操作を決める。わからないときはその場で質問すると、細かく教えてくださるので、とても勉強になりました。

おやっさんは、どの工程でも現場へ来て、自分の目でその状態を確かめます。洗米・蒸し・麹・仕込み・酒母・醪・上槽・粕剥きのすべてにおいてです。その都度、的確に指示をして、その理由を説明をしてくださるのが印象的でした。おやっさんの酒に対する思い、お客様に対する気持ちがよくわかりました。

農口尚彦研究所で原料処理を担当する宮崎さん

原料処理を担当する宮崎さん

宮崎さん:これまでは追回し(雑用係)の仕事が中心だったこともあって、洗米や蒸米などの原料処理の担当を初めて任せられたことで、釜屋(蒸米の担当者)という仕事の責任を感じました。おやっさんはもちろん、麹屋の小西さんや酛屋の安田さんから「ちょっと水を吸わせすぎじゃないか?」「この日の蒸米、いつもと変わったところはなかったか?」と聞かれるたびに、自分の判断が工程すべての出来、ひいては酒の味を左右してしまう事実に行き当たったんです。

おやっさんの言うように、米の様子は毎日違い、気温や水温などの細かな変化も多いので、それをどうやって一定に保つかが重要。今年は言われたことをやるので精一杯だったので、まだまだできていないことがたくさんありますが、来年は挽回したいと思います。おやっさんの考えている真意やねらいに、しっかり応えられるようにしていきたいです。

農口杜氏が最前線にいる。その環境から得られる学び

― 実際に農口杜氏の下で仕事をしてみて、どういったところに"やりがい"を感じますか。

山崎さん:農口流の造り方を体験できること。これに尽きますね。

宮崎さん:農口杜氏のそばで、トップレベルの酒造技術を見られることが一番です。また、蔵人同士がお互いに学び研鑽し合える雰囲気と環境が整っていることも、農口尚彦研究所で仕事をするやりがいのひとつではないかと感じています。

「和醸良酒」といえど、なあなあの空気で造っても良い酒はできません。逆に、足を引っ張り合うような雰囲気では、必ずミスが生じるでしょうから。新しい蔵ということもあって、初めてこの蔵に来たときは自分の想像を上回るほどの充実した設備に驚きましたが、それも日々進化しています。

農口尚彦研究所の蔵人、小西さんの写真

麹を担当する小西さん

小西さん:おやっさんから酒造りを学べることに対する期待は大きく、わからなかったことが「こういうことだったのか!」とはっきりすることも多いです。得られる知識がより立体的になったと感じています。

安田さん:酒造りを一からしっかり学べることでしょうか。おやっさんが先陣を切って身体を動かしているので、認識している年齢と実際の動きにギャップを感じることもあります。おやっさんの"動き"を近くで見られるのは、何よりも学びが大きいですね。

特定名称やスペックを超えていく酒

―"飲む側"から"造る側"にまわって、あらためて、農口杜氏が造る酒のどんなところに魅力を感じますか。今年の酒で好きな銘柄があれば、教えてください。

山崎さん:山廃純米は米の旨味を最大限まで引き出していて、コクがあってガツンとくるけれど、その厚みに嫌味がなく、それでいてスパッとキレる。飲んだときに「あぁ、これだな」と思いました。

ほぼ毎夜、食堂でおやっさんを交えて酒を利いているので、おやっさんの好き嫌いがわかってきました。搾ってみたときに「これはおやっさん好みじゃないな」と思うことも(笑)。毎夜の利き酒は、自分にとって大事な時間になっています。

「五彩」シリーズの本醸造酒

農口尚彦研究所「五彩シリーズ」の本醸造酒

小西さん:特に純米大吟醸酒が好きです。きれいで旨味があって、香りもある。"きれい"と"旨味"が両立するのは、驚きかつ発見がありました。

安田さん:私は本醸造酒ですね。一般的に、本醸造酒は下手に造ってしまうとアルコール臭くなってしまうんです。でも、おやっさんが造るのは「本当に本醸造酒?」と疑いたくなるくらい、香り・旨味・キレがある。度数も高いのにアルコール臭さを感じさせないのがすごい。

宮崎さん:たしかに、自分も本醸造酒はすごいなと感じています。特定名称やスペックを確認した後でも、そのイメージを超えてくる印象を受けました。

農口流の酒造りを、自分のものにしたい

― 最後に、来季の造りで期待すること、あるいは挑戦したいことはありますか?

山崎さん:来年もおやっさんの指示を忠実にこなす。ただ、これだけです。

小西さん:麹に対する理解をもっと深めて、自分の感覚とおやっさんの感覚が一致するように磨いていきたいです。今期よりもっと良い麹、良い酒を造れるようにしたいですね。また、自分が杜氏になるという目標を実現できるように、いざ杜氏になっても問題なく酒造りができるように、さらに勉強を深めて、より全体を見られるようになりたいです。

安田さん:挑戦したいのは、酵母の培養です。強い酵母を培養するのは酒母担当の役目なので、おやっさんのやり方を自分のものにしたいですね。

宮崎さん:まずは自分の仕事をきちんとこなすこと。今期、まわりの動きが気になって自分の仕事が雑になってしまった部分があり......そんな状態では、他の仕事を見ても学べることが少なくなってしまいます。造りが終わった後に「もったいないことをしたな」と言われ、「たしかに......」とショックを受けたんです。仕事への取り組み方を見直して、さらに成長したいですね。

農口尚彦研究所の仕込室

蔵人たちは農口杜氏の一挙手一投足を学びの機会として、みずからの酒造りに対する理解を深めているようでした。農口杜氏の酒造りを経験した蔵人たちが、"農口イズム"を継承して造る次世代の酒に、期待せずにはいられません。

そして、蔵人たちだけでなく、農口杜氏にもこの1年を振り返っていただきます。肩の荷が下りたような、やわらかな表情で答えてくれました。

農口杜氏が振り返る、蔵人たちの働きぶり

― 農口杜氏、今期お疲れさまでした。蔵人たちの感想を聞いて、いかがでしたか。

農口さん:若い時と違って身体が動かないので、みなさんにすがる思いで酒造りをしています。自分の酒造りを伝えて、なんとかがんばってほしいという思いでいっぱいです。

ただ、自分の考えを忘れずに、酒と接してほしいですね。最初は私の言うとおりにやってみて、良い体験は残し、悪いことは一旦飲み込んで、自分が酒造りするときに生かしてほしいです。

1期目の造りを振り返る農口杜氏

― それぞれの担当はどのように決めたのですか。

農口さん:それぞれの性格を見て決めました。全員、来期も同じ部門を担当してもらうつもりです。やはり、たった1年の経験ではわからない。全部で5つの担当があるので、2年ずつで10年の経験になる。10年働いて、ようやく一人前です。

さらに、杜氏として自分のカラーを出していくためには、そこからあと10年はかかる。麹や酒母の造り方も自分で実践しなければなりません。だからこそ、時間は必要ですね。

― 今季の酒造りを終えてみて、蔵人たちの働きぶりに思うことがあれば、教えてください。

農口さん:先程の話にもあったように、たしかに釜屋(宮崎さん)に対して、強く言ったこともありました。釜屋の仕事は、毎日安定した蒸米を供給することが基本です。それがなければ、酒の品質を保てませんから。しかし、釜屋だけでなく、みんなが言うことをしっかり聞いて動いてくれた。お客様からも、ある程度の評価をいただいているけれど、直したいところもまだまだあります。

とはいえ、この場を借りて......みんなご苦労さんだったね。よくがんばってくれた。ありがとう。

農口尚彦研究所の会話の様子の写真

師匠と弟子。上司と部下。杜氏と蔵人の関係を言い表す言葉は数あれど、農口尚彦研究所はさながら、"同志"という言葉が似合いそうなほど、酒への探究心が縁となった職人たちの集まりなのだと感じました。日々の生活をともにし、新しい酒蔵で冬を越す。その成果として生まれた酒は、県内ではすでに入手が難しいほどの評判を呼んでいます。

2年目のスタートに向けて、農口尚彦研究所では増産に向けて新たな蔵人の採用が始まりました。日本酒造りに真っ向勝負で立ち向かう彼らの熱意は、仲間を得てますます伝播していくことでしょう。農口杜氏の澄んだ瞳は、次なる未来へと向けられていました。

(取材・文/長谷川賢人)

sponsored by 株式会社農口尚彦研究所

この記事を読んだ人はこちらの記事も読んでいます