日本酒造りに必要な要素のひとつ「酵母」。酵母には、糖をアルコールと炭酸ガスに変える働きがあり、それは日本酒の香りや味わいに大きく影響します。
多くの酒蔵で、日本醸造協会が頒布している「きょうかい酵母」が広く使われている一方、全国の自治体や研究機関では、独自の酵母が多数つくられています。
今回紹介するのは、清酒酵母のなかでは珍しい、燗酒に向いた日本酒を造るための酵母です。その名も「京の珀(はく)」。美しい宝石のひとつ・琥珀が名前の由来になっているこの酵母は、京都市が独自に開発しました。その現場に潜入してみましょう。
酵母を研究し続けて20年!「京の珀」開発の立役者
訪れたのは、JR山陰線の丹波口駅。京都の食糧庫「京都中央卸売市場」があるエリアで、市場からほど近い場所には、産学公連携活動拠点「京都リサーチパーク」があります。その一角に建つ、京都市産業技術研究所(以下、産技研)は、製造業に関わる中小企業が研究・開発で直面する課題を解決し、より良い技術・商品を創出できるように支援を行っている、公的な機関です。
8つの研究チームから構成され、そのなかのバイオ系チームが、京都市内にある酒蔵への技術支援を一貫して行っています。このチームは昭和30年代から清酒酵母の分譲を続けてきました。
産技研で研究部長を務める廣岡青央(ひろおかきよお)さん(写真左)と、4年前の入所以来、技術分析を担当している清野珠美(きよのたまみ)さん(写真右)に話を伺いました。
「私が入所したころは、研究員が酒蔵に出向いて話を聞くという動きがありませんでした。今は、清野さんにも積極的に酒蔵をまわってもらって、現場の空気や要望などを細かく聞き取るようにしています」(廣岡さん)
「ありがたいことに『清野さんの開発した酵母やったら、絶対使ったるわ!』と言ってくれる蔵元さんもいるんですよ」と、うれしそうに話す清野さんの姿から、産技研が京都の日本酒業界で信頼されている様子が伝わってきました。
1997年に入所してから、20年もの間、日本酒の酵母を研究し続けてきた廣岡さん。「京の珀」は、京都独自の酵母「京の〇〇」シリーズの第4弾で、10年前に開発が始まり、2016年にやっとリリースされたのだとか。
燗酒向き酵母のキーワードは「コハク酸」
日本酒造りに欠かせない、"発酵"。これは、麹菌と酵母、ふたつの微生物による共同作業です。麹菌が米のデンプンをブドウ糖に変え、酵母はそのブドウ糖からアルコールと炭酸ガスを生成します。
それでは、"燗酒に向く酵母"には、どんな秘密があるのでしょうか。
廣岡さんは「コハク酸の生成比率が高いことです」と、教えてくれました。
コハク酸は、貝に含まれる成分のひとつ。コクがあり、40℃以上に温めることでよりふくらみが増して、豊かな味わいが感じられるようになります。このコハク酸の割合が高くなることによって、香りがおだやかで、温めたときにより深いコクとやさしい丸みを感じられる、燗酒に向いたお酒になるのです。
産技研が手がける「京の〇〇」シリーズには、香り高いお酒を造る「京の琴」や、冷酒向けの「京の咲(さく)」などがあります。特に「京の琴」は、華やかな吟醸香が楽しめる新酒を造るのに向いているため、市内の酒蔵から大人気なのだそう。
こちらが「京の珀」。酵母の開発には、10年近い年月がかかるそうです。もっとも優れた性質をもった酵母株を、地道に育成し選抜していく根気が欠かせません。
酵母が完成すると、各種類ごとに試験的な醸造を行います。試験醸造にも免許が必要だそうで、ビーカーに少量の醪を造って、小さい単位で醸造していくのだとか。
「できあがったお酒で、酒盛りをすることはないんですか」と、聞いてみると「試験醸造のお酒はすべて、きき酒や分析にのみ使います。そもそも、酒蔵とは違って、研究所内の試験醸造では美味しい日本酒に仕上げることができないんです」と、笑顔で答えてくれました。
室内には、"無事に試験醸造できますように"という願いを込めて、奈良県の大神神社からいただいた三輪明神の絵馬とお札が祀ってありました。最先端の研究所にも、日本の伝統文化が表れていますね。
天井から下がっているのは、なんと杉玉。神の技ともいえる"発酵"に敬意を示しているのだそう。プライベートでも燗酒が大好きだというふたりの「京の珀」に向ける温かい気持ちが、ひしひしと伝わってきます。
京都燗酒のトップランナー「英勲」
実際に「京の珀」を使って日本酒を醸すと、どんなお酒になるのでしょうか。
「京の珀」を酒造りに使っている「英勲」醸造元・齊藤酒造株式会社を訪れて、社長の齊藤透さん(写真右)と製造課長の中村清隆さん(写真左)に話を伺いました。
「京の珀」をはじめて使用したのは、おととしの28BY。一般的に燗酒に向くといわれる本醸造酒で試みました。それを1年寝かせて、昨年11月に発売したのが「英勲 本醸造 京の珀」です。
「1年熟成させて、丸みのある良い味になりました」と、目を細める中村さん。なんでも、大阪国税局が主催する鑑評会で燗酒部門の優秀賞を獲ったのだとか。「産技研の独自酵母は発酵力が強いので、使いやすいですね」とのことでした。
齊藤社長は、京都の研究所が開発した酵母と京都の水を使って、京都の酒蔵が醸したこのお酒について、「これから評価されていく段階ですが、このお酒はきっと受け入れてもらえると思います」と、自信をのぞかせています。
「温度帯を変えて楽しめるのは、日本酒の魅力。それを捉え直す良いきっかけをいただいたと思っています。ゆくゆくは、若い世代や外国の人々に、"温度帯で遊ぶ"という日本酒の伝統を伝えていけるお酒にしたいです」
さらに、「京の珀」が京都の他の酒蔵でも使われるようになることで「京都のお酒は、燗でも美味しいね」と思ってほしいのだそう。
「そのトップランナーを、うちの『英勲』が走っていてほしいです」と、笑顔で語ってくれました。
蔵元直営店で「京の珀」の真価を体験!
関係者から熱のこもる話を聞いて、実際に「京の珀」を飲まないわけにはいきません。
「英勲 本醸造 京の珀」は齊藤酒造のネットショップでも購入することができますが、今回は近鉄桃山御陵駅にほど近い、齊藤酒造の直営店「醪音(もろみね)」を訪れました。
おしゃれで和風な、落ち着きのある店内です。
カウンターには、目当ての「英勲 本醸造 京の珀」がありました。
こちらは、店長の小西俊大(としひろ)さん。
「知名度はまだまだこれからですが、実際に飲んで美味しいとおっしゃるお客さんは多いです。このお酒の燗は、自信をもっておすすめできますね」
今回は、45℃で燗をつけていただきました。燗にしても、香りは穏やか。しかし、ひとくち含むと、ほのかな甘味をともなったしっかりとした旨味と、柑橘系の酸が強く感じられます。まるで、ホットレモンのようです。
これはたしかに美味しい!燗酒が苦手な人でもすいすい飲めると思います。「若い世代や外国の方々に飲んでもらいたい」と話していた齊藤社長の言葉が頭に浮かびました。
「この燗酒にはこれが合うよ」と、アナゴの七輪炙りをいただきました。脂がのったアナゴに、塩とワサビを軽く添えて、お酒とともに口に含みます。燗酒のぬくもりと酸味がアナゴの脂を心地良く洗い流し、燗酒の旨味と甘味があとから寄り添います。さすがのペアリングです。
「京の珀」を使った京都の日本酒がよりオリジナルなものとして認識され、世界中の日本酒ファンが京都に集って燗酒を飲むような、そんなスケールの大きい未来が思い浮かびました。京都を訪れるときは、ぜひ、京都ならではの燗酒を京都の誇るグルメとともに味わってほしいです。
(取材・文/山口吾往子)