およそ40年前まで、日本には、何年も熟成させて楽しむ日本酒がほとんど存在していませんでした。しかし、日本酒の歴史を振り返ると、鎌倉時代にはすでに3年熟成の酒があり、江戸時代には5~10年寝かせた熟成古酒が造られています。
明治時代になると、政府の税制によって、年を越して熟成させる酒が姿を消してしまいますが、昭和40年代に入ると、熟成古酒に挑戦する酒蔵が再び現れ始めました。この"熟成古酒の失われた100年"を、日本酒造りの歴史とともに振り返っていきます。
前回の記事では、熟成古酒の歴史を一変させた明治政府の酒税について紹介しました。今回は、新たな銘醸地の誕生と品評会の始まりについてみていきましょう。
新たな銘醸地「広島県」「福岡県」の誕生
明治時代に入ると、全国に新しい銘醸地が誕生し始めます。それを牽引したのは、2人の酒造家でした。
三浦仙三郎(広島県)
明治9年(1876年)、広島で雑貨屋を営む三浦家の長男・仙三郎は、腐造が続いて廃業寸前だった地元の酒蔵を買い取り、酒造業を始めました。
酒造りをまったく知らない彼は、灘の酒造りについて書かれた文献を読み込んだり、灘の酒蔵から杜氏を引き抜いてきたり、蔵人として灘の酒蔵に住み込み、その技術を習得したりしながら、灘に負けない美味い酒を造るために試行錯誤を繰り返します。しかし、それでも腐造の連続で、なかなか思い描いた酒ができません。
そんな時、京都の銘酒「謙鼓(かんこ)」の蔵元・大八木庄太郎が「酒造りの水には、硬水と軟水がある」と説いている噂を耳にします。当時、仙三郎は水の違いに気付いていませんでした。当然、硬水を使って仕込む灘の酒造りを、広島の軟水で再現しようとしても上手くいくはずがありません。
その後、さらに研究を重ねて、広島の軟水に合った「軟水醸造法」を確立した仙三郎。自分の蔵だけでなく、他の杜氏たちにもその技術を伝授しました。
その成果は、全国から2,137点もの出品があった第1回全国清酒品評会(明治40年)において、広島の酒が上位5点のみに与えられる優等賞に2点、そして1等賞の48点に18点も入るという、圧倒的な好成績として現れたのです。
小林作五郎(福岡県)
寛政5年(1793年)に酒造業を始めた小林家。大庄屋を務めるなど、地主兼副業の酒造業者として知られていました。6代目の作五郎は福岡県酒造組合を創設するなど、地酒の改良に取り組んだ人物です。
彼は、造り手がそれぞれ個別に醸造技術の向上を目指すのではなく、組合全体で改良を進めていくことや、製品を"精美"にし、消費者の嗜好に適したものにすべきだという方針を示します。さらに、西宮・灘五郷・伊丹・堺・半田・亀崎など、各地の酒造業を視察し、果てには同業者を官吏に変装させて、先進的な酒蔵の技術を盗ませるほどでした。
酒造りを始めたころは、毎年のように杜氏を更迭していたのだそう。しかし、なかなか上手くいかなかったようで、杜氏を始めとするすべての蔵人を灘の酒蔵で働いていた丹波の出身者に替えてしまいますが、それでも腐造が繰り返されるため、最後はみずからが蔵に泊まり込み、研究をするようになりました。
そして、西宮の水は硬水で、地元の水が軟水であることを突き止め、軟水に適した醸造法を確立し、福岡県を銘醸地に育て上げたのです。
品評会で圧倒的な成果を上げた広島県
明治37年(1904年)に国立醸造試験所が設立されると、その外郭団体である日本醸造協会は、明治40年(1907年)に「第1回 全国清酒品評会」をスタートしました。
広島県の三浦仙三郎や福岡県の小林作五郎など、全国各地で美酒造りに挑戦する杜氏たちはこれを絶好のチャンスと考え、上位入賞を目指します。良い酒を造るために必要なことに対して、時間や手間、資金を惜しむことなく投入して、酒造りの向上を目指したのです。
酒造りの技術が飛躍的に高まった地方の筆頭は広島県。全国清酒品評会の発足以来、上位入賞点数・入賞率ともに、飛びぬけた成績を残しています。
◎全国清酒品評会の優等賞受賞蔵
- 第1回
龍勢(広島県)、三谷春(同)、富の寿(福岡県)、高賞(兵庫県)、三角正宗(岡山県) - 第2回
花心(広島県)、菱百正宗(同)、諌鼓(京都府)、白鷹(兵庫県) - 第3回
三角正宗(岡山県)、月桂冠(京都府)、日の出(愛媛県)、菊正宗(兵庫県) - 第4回
菊の花(広島県)、白牡丹(同)、万代一(同)、金鵄正宗(京都府)、山丹正宗(愛媛県)、両関(秋田県)、宝亀(岡山県)、寿海(兵庫県) - 第5回
山陽長(広島県)、芸陽男山(同)、芸陽亀齢(同)、鼓正宗(兵庫県)、大関(同)、菊正宗(同)、菱本正宗(岡山県)、花菱高千穂(千葉県)
広島県はほぼ毎回、複数銘柄が優等賞を受賞しているのに対し、灘五郷を擁する兵庫県の入賞数は次第に減っていき、第7回には完全に姿を消してしまいます。
この結果に危機を感じた灘の酒蔵は、審査の方法に異を唱えました。第8回の品評会では、それまでは民間人のみだった審査員に醸造試験所の技師・江田鎌治郎と東京局の技師・鹿又親を加えたのです。しかし、灘酒の受賞はゼロという結果に終わってしまいました。
灘酒が品評会をボイコット!?
全国清酒品評会の出品点数は回を追うごとに増えていきました。しかし、地方の酒蔵が力を付けていくと、灘の酒が上位に入賞することが少なくなり、その力が相対的に落ち込んでいきます。江戸以来、日本酒の主産地として絶対的な力を誇ってきただけに、これは由々しき問題です。
そこで「私たちは消費者の好む酒を目指し、消費者本位の酒造りをしているため、いまさら品評会で良い成績を上げる必要はない。品評会のために特別な酒を造る地方の酒蔵と競争しても、それを酒の値段に反映できるわけではない」という発表を行ない、大正13年(1924年)に開催された第9回から、出品拒否という強行手段を採りました。
このボイコットは、実際に飲まれる酒の美味しさを競うはずだった場が、消費者にはまったく関係のない、特殊な酒造技術を競う場に変わってしまった品評会の問題を象徴しているかもしれません。
◎参考文献
- 『近代日本酒造業史』(藤原隆男/ミネルヴァ書房)
- 『吟醸酒誕生』(篠田次郎/鎌倉書房)
(文/梁井宏)
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