長野県上田市に位置する和田龍酒造は、16年前から現在まで蔵元の和田澄夫さん(56歳)が他の酒蔵で酒造りを続けている異色の酒蔵です。

製造免許にまつわる事情があったため自蔵での酒造りを断念し、現在は、同じ長野県の千曲市にある長野銘醸に毎日足を運び、杜氏や蔵人とともに酒造りに邁進しています。

和田龍酒造の和田澄夫さん

和田龍酒造の和田澄夫さん

和田さんが1本のタンクの酒質をすべてを決めて仕込むのが「和田龍登水(わだりゅう・とすい)」。この“責任仕込み”の酒に根強いファンが年々増えています。そんな和田さんの美酒造りへの情熱に迫りました。

他蔵の蔵人たちと二人三脚で醸す酒

長野銘醸での和田さんのタンク2019年12月、ある日の午前中。長野銘醸の蔵には杜氏の若林秀章さんと3人の蔵人、そして和田さんの姿がありました。この日は和田龍酒造の「和田龍登水」の掛米(蒸した後、冷まして仕込みタンクに投入する米)が蒸されていて、和田さんは仕込みタンクへ掛米が投入される様子を細かく観察していました。

その後、長野銘醸銘柄になる仕込みタンクの櫂入れと温度チェックを行い、作業が一段落すると、和田さんは若林さんと一緒に搾ったばかりのお酒を利きながら、今年の酒米の特徴や今後の麹造りについて率直な意見交換を行いました。

和田龍酒造の和田さん(写真左)と長野銘醸の杜氏・若林さん

和田龍酒造の和田さん(写真左)と長野銘醸の杜氏・若林さん

「原料処理から蒸し米運び、醪管理や搾りまで、蔵の作業はみんなと一緒にやってくれるので、蔵人のひとりともいえます。けれど、和田龍酒造に運ばれていくお酒の麹と酒母をどう造るかや、いつ搾るかといったタイミングなどはすべて和田さん自身が決めているので、そういう意味ではパートナーでもあります」と、若林さんは和田さんについてこのように話してくれました。

独自の製造スタイルは、酒造免許の制約から始まった

他の酒蔵に出向いて自蔵の酒を造るという変則的な体制になったきっかけは、昭和48年(1973年)まで遡ります。

明治20年(1887年)創業の和田龍酒造は、地元・上田の地酒として酒造りを続けてきました。戦後になって、各地で広がっていた酒造りをひとつの蔵に集約して効率化し、各蔵は造った酒を自蔵に運んで瓶詰めし出荷するスタイルとなります。そのため、自らの蔵での醸造を止めました。

以後、桶買いで酒を調達して瓶詰めし、販売するやり方を続けてきましたが、2000年に桶買い先の酒造会社が長野市から撤退するという話が飛び込んできます。

和田さんかいいれ

ちょうど、蔵に戻ってきて10年ほどが経っていた和田さん。営業先を回ると「和田のところは酒蔵といっても酒を造っていない、瓶詰めしてるだけ」という話が聞こえてくることもあったそうです。

そんな悔しい思いをしていた和田さんは、酒造会社撤退の話を聞き、先代と相談し、もう一度自社で酒造りを再開する計画を進めます。ですが、酒造りの許可を得るために税務署に足を運んだところ「酒造免許はおりません」と断言されました。

和田さんは悔し涙を流した当時を、こう振り返ります。

「集約製造を決めた時、父は将来酒造りを再開することができるようにと酒造免許を税務署に預けたつもりでいたようです。ところが実際は免許を返納していたことになっていて、新たに酒造免許を取得しなければなりません。清酒の製造免許を新規取得することは事実上不可能で、例外扱いにしてもらえませんでした」

長野銘醸にて甑

自蔵での酒造りが叶わないと知った和田さんは、いまさら酒造りをすべて任せる桶買いを続ける気にはなりませんでした。どうすれば自分の手で酒造りができるのかと思案した時に思い浮かんだのが、長野銘醸でした。

長野銘醸の蔵元・和田家は、和田龍酒造の和田家にとって県内で一番近い親戚でした。

同業とはいえ、近年は関係が薄かった両蔵。和田さんは長野銘醸の蔵元に頭を下げ「自分も蔵人として参加するので、自社の酒を長野銘醸で造らせて欲しい。迷惑かもしれないが、造りの期間は毎日蔵に行くので、認めてほしい」と頼んだのです。

その返事は「歓迎する。一緒に美味い酒を造ろう」というものでした。

長年の夢だった自社銘柄「和田龍登水」の誕生

こうして2004年の造りから、和田さんは長野銘醸で酒造りに加わるようになりました。1年目から「和田龍が買い付けるお酒は酒質設計から造りや搾りまで和田さんが決めていい」といわれたものの、和田さんは酒類総合研究所での半年間の研修以外、酒造りの経験がありませんでした。

「実質的には駆け出しの蔵人だったので、最初は杜氏のアドバイスに従うだけの状況でした」と和田さん。

そんな中でも、小仕込みでていねいな酒造りに徹していたところ、それまで取引のなかった長野県内の有力酒販店から「うちでも取り扱うから、地酒専門店向けの新しい銘柄を立ち上げてほしい」との要望を受けました。

それを受けて、2005年に和田さんの名前、澄夫の「澄」の字を分解して名付けた「和田龍登水」が誕生します。

登水出荷前

和田龍酒造の「和田龍登水」

「生酒」のおいしさを追求し続ける

酒造りに参加するだけで精一杯だった和田さんも年々慣れてきて、「和田龍登水」をどのような味わいにするか、どんな個性を出すか細かく決めていくようになります。

2009年、「味と香りのバランスが取れた酒ができた」と実感したことから、長野県酒造組合が毎年東京で開いている日本酒イベントに初めて参加。そこで和田さんが持っていった無濾過生原酒が評判を呼びました。

「以前は火入れの商品もありましたが、生酒の割合を増やしていき、今ではほとんどの商品を無濾過生原酒で出荷しています。生酒は搾ったばかりは荒々しさが残る。その分、瓶詰めして冷蔵庫で寝かしておくと、徐々に味わいがまろやかに変化していきます。四季折々で変わる生酒のおもしろさを基本にしっかりと味がある一方で、透明感とキレのあるフルボディーの酒を目指して、毎年味わいをブラッシュアップしています」と和田さん。

長野銘醸前にて若林さんと和田さん

毎期、製造計画を若林杜氏と一緒につくり、設備改善についても意見交換を行って、蔵元へ意見を上げることもあります。そのため酒造りに制約を感じたことはありません。

「長野銘醸まで車で片道40分の移動時間も、酒造りについてあれこれ考えているとあっという間で苦になりません。今のやり方でこれからも美味しい日本酒を造り続けて行きます」

冷めることのない情熱で醸す「和田龍登水」のこれからが、ますます楽しみです。

(取材・文/空太郎)

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