東日本大震災の津波の被害で、酒蔵の設備のほとんどが流されてしまった宮城県名取市の佐々木酒造店。

以来、蔵のあった閖上(ゆりあげ)地区から4キロほど離れた市内の工業団地に仮設蔵を設けて、小規模で酒造りを細々と続けてきましたが、ついに創業の地・閖上に戻れることが決まりました。

佐々木酒造店 蔵元専務の佐々木洋さん(写真右)と、弟で杜氏の佐々木淳平さん(写真左)

佐々木酒造店 蔵元専務の佐々木洋さん(写真右)と、弟で杜氏の佐々木淳平さん(写真左)

津波の被害にあった日に、「必ずここに帰ってくる」と心に決めた蔵元専務の佐々木洋さんと、弟で杜氏の佐々木淳平さんの強い思いが結実したのです。

現在、おふたりと蔵人たちは仮設蔵での最後の造りに取り組みながら、2019年10月に予定されている新しい蔵開きの日を心待ちにしています。

力強い思いを持って復興へと向かう、その軌跡を追いました。

8年間にも及んだ仮設蔵での酒造り

佐々木酒造店の仮設蔵外観

JR名取駅から東へ2キロほど進むと、見えてくるのが名取市復興工業団地。自動車学校跡地に建設された団地には、津波で流された市内の会社が入居しています。

その業種は、水産加工、鉄鋼加工、クレーン整備、花卉(かき)販売、中古自動車販売、水産加工業など多種多様。そんな団地の中に、佐々木酒造店の仮設蔵がありました。

建物の内部はテニスコート2面ほどの広さで、天井高が7メートルもある小さな体育館のよう。中には仕込みタンクや搾り機、洗米機、甑、冷蔵庫、麹室などが所狭しと並んでいます。まるで小さな加工場で、とても酒蔵とは思えません。取材に訪れた日は、蔵人たちがお酒の瓶詰めに忙しそうでした。

「今季の造りは4月いっぱいで終えて、それからは引越しの準備です。ここで8季もの間、造りを続けてきました。これが最後だと思うと名残惜しい気持ちも湧いてきます。ですが、閖上に戻れる喜びのほうがはるかに大きいですよ」と、洋さんは感慨深げに語りました。

「波の音が聞こえるところで造らなければ意味がない」

津波の被害にあった佐々木酒造店の外観

2011年3月11日。地震が起きた時、洋さんは蔵から離れた場所で別件の会議に臨んでいました。揺れがおさまって彼の頭によぎったのは、蔵にある背の高い煙突です。

「倒壊して近所に迷惑をかけていないかが1番の心配で、海に近い蔵へ車で急ぎました」(洋さん)。

もちろん、大きな地震だったので、津波が起きるかもしれないという意識は強く持っていたのだそう。洋さんは子供の頃に祖母から次のように言われたことを忘れていませんでした。

「閖上には津波が押し寄せたことがある。地震が起きたら津波が来ることを忘れるな。うちの蔵は改築して鉄筋コンクリートだから頑丈だ。逃げるなら蔵の屋上だぞ」

蔵に戻り、被害状況をチェックしている最中、「津波が来たぞ!」との声が聞こえると同時に迷わず屋上に駆け上がりました。高さ5メートルにもなった津波は、瓦礫とともに蔵の1階にあった酒造りの設備を巻き込んで流れていきます。

水にぷかぷかと浮いて、倒れることなく済んだ一部のタンク以外はすべてが流され、酒造りに使えるものは何も残りませんでした。

津波の被害にあった佐々木酒造店の蔵内部

「津波がやってきてから引くまでの様を屋上からつぶさに見ていて、言葉が出ませんでした。けれども、日本は数多くの天災の被害を受けても立ち直ってきた歴史があります。

うちの銘柄である『宝船 浪の音(ほうせんなみのおと)』は、この太平洋の波の音が聞こえるところで造らなければまったく意味がない。10年かかろうが20年かかろうが、閖上に必ず戻ってくる」と、何もかもが流された蔵で佐々木兄弟は心に刻んだのです。

制約が多い仮設蔵だからこそ、挑戦できた

仮設蔵での仕込み作業

「いつかきっと戻る」との気持ちは起きても、具体的な復興への道筋はなかなか作れないままでした。

街のほとんどが流されてしまった閖上地区は、区画整理が完了するまでは新しい建物を建てることができない状態です。かといって、いずれ帰るつもりなのだから、別の場所に土地を買って本格的な酒蔵を建てるわけにはいきません。

迷い続けているうちに半年が経過。そんな折、独立行政法人・中小企業基盤整備機構が津波で流された名取市内の中小業者を対象にした「名取市復興工業団地」を建設すると聞き、佐々木専務はただちに手を上げます。

ここに仮設蔵を建て、閖上に帰るまで酒造りをつなぐ作戦でした。

仮設蔵での出荷作業

しかし、翌2012年の春にできあがった団地の建物内に入った佐々木兄弟は愕然とします。

酒造りには大量の水が必要だというのに、一般家庭用の水道と同じ口径の蛇口しかありません。シンクも1ヶ所のみ。道具を洗った大量の水を排水する側溝もない。

「ようするに、食品工場の要件がひとつも満たされていなかったのです。しかも、建物の壁は薄くて、外気温の影響が大きく、室内の温度管理も苦労しそうな環境でした。専門家には、『ここで酒ができるとは思えない』とまで言われてしまいました」(洋さん)

仮設蔵での仕込み作業

それでも、全国の酒蔵から酒造りのための中古設備を譲り受け、宮城県産業技術総合センターの指導を受けながら仮設蔵の環境整備を進め、2012年12月に仮設蔵での酒造りが始まりました。

「できあがった麹を枯らす場所がないので、麹の造り方を変更し、酒母造りにおいても安全に酒母を育てる手法である高温糖化酒母を採用しました。初めての試みでしたが、結果はうまくいきました。弟は、『仮設蔵の環境で理に適っている製法が高温糖化酒母であり、そのお陰で酒が造れる』と言っていました」(洋さん)

1年目からねらった酒質のお酒ができたことで自信を持った2人は、以降もあらゆる工夫を重ねていきます。そして、2年後の造りで全国新酒鑑評会に出品したお酒が入賞したのです。

「仮設蔵でも評価される酒を造れたことがとてもうれしかった。こんな環境でも美酒は造れる。逆風の中で我々は腕を上げたと確信しました」と、2人は口を揃えていました。

土地の文化を溶かし込んだ酒を造る

新設蔵建設予定にたつ蔵元専務の佐々木洋さん

被災にあった閖上地区の盛土と区画整理が、ついに完了します。

佐々木酒造店の割り当てられた土地は、希望していた通り、創業の地とほぼ同じ場所。ここに製造棟と販売店を建設することになりました。全館空調の効いた製造棟内には、必要な設備がすべて揃う予定です。

やりたいこと全部を設計に込めた復興蔵。ここでさまざまな造りにも挑戦し、新銘柄もデビューさせる予定です。

佐々木酒造店が造る銘柄

「大地からの恵みである米と水をもとに酒を醸している者が、自然現象に対して後ろ向きの思いを持ち続けるのはよくないと思います。

父は、『その土地の文化を液体化すると日本酒になる』と言っていました。土地の風土と文化、それに歴史を理解したうえで、その土地と人に寄り添うような酒造りを続けていきます」

日本酒を造る意味について、このように語る洋さん。復興する新しい蔵で、初めての酒ができる年末が待ち遠しくてなりません。

(取材・文/空太郎)

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