2019年現在、日本酒を醸す酒蔵は全国に約1,500あると言われています。しかしその一方で、平成に入ってからの30年間で廃業した蔵は、800にも上ります。それぞれの酒蔵に、それぞれの"おらがまちの酒"があったことでしょう。
「時代の変化が激しい今だからこそ、現存するすべての酒蔵に足を運び、そこにある酒と思いを、みなさんに、そして未来に届けたい」という思いから、「日本酒を醸す全ての蔵をめぐる旅」が始まりました。
全国新酒鑑評会で、今年で7年連続となる金賞受賞数日本一となった福島県。そんな福島の酒蔵をめぐる旅の第1弾は、浜通りと中通り南方に位置する5つの造り酒屋。酒造りの話を聞いていくと、地元に懸ける思いが見えてきました。
「知る人ぞ知る」その理由― 四家酒造店(いわき市)
福島県の沿岸部、浜通り地域の南側に位置するいわき市。"東北のハワイ"ともいわれ、かつて炭鉱で栄えていた時代には30もの酒蔵があったそうですが、現在は2軒だけになってしまいました。
そう教えてくれたのは、四家酒造店(しけしゅぞうてん)7代目の四家久央さん。いわきの歴史にも精通しており、市の文化財を保護する活動もされています。
いわき市は、福島の沿岸に位置することもあり、東日本大震災当時は大変な混乱のあった地域。四家酒造店は直接の被害は少なかったようですが、とてつもない不安と苦労があったそうです。
そんな中でも、岩手県出身のベテラン南部杜氏、菅原栄一さんは、すべての工程を終えるまで帰郷せずに酒造りの仕事を続けたといいます。他の蔵人さんたちも仕事を全うし、震災の混乱の中でも酒を絶やさず、力を合わせて乗り越えていったとのこと。
「人とのつながりや交流が増え、酒蔵の地域の中心としての機能を再認識しました。震災は確かに悲劇でしたが、悪いことばかりではなかった......と思いたい」と、四家さんは気丈にもこう話してくれました。
蔵を訪れて印象的だったのは、蔵の中の清潔さです。新しい設備が多くあるわけではないのですが、隅々まで整頓されて清潔に保たれており、蔵人たちのきめ細やかさを感じました。
四家酒造店が造る「又兵衛」の味わいは、甘さの強いものから淡いものまでさまざま。その幅広さには理由があるようで、「いわき市では、カツオもあんこうも捕れる。魚のほかに農産物もある。いわき市の食材にできるだけ対応していきたい」とのこと。
「又兵衛は、知る人ぞ知る酒」だと、耳にしたことがあります。
全国新酒鑑評会では金賞受賞の常連で、製造量は地酒蔵としては決して少ない方ではありません。しかし、県外ではなかなか見ないのもまた事実。
四家さんに出荷先を尋ねると、「いわき市でだけ、9割5分」という驚愕の答えが返ってきました。このことからも、いかに地元を中心に酒造りをしているか、どれだけ地元に愛されているかが伝わってきます。
小さい蔵だからこそできること― 太平桜酒造(いわき市)
映画化された小説『超高速!参勤交代』の舞台となった旧湯長谷藩。太平桜酒造は、藩が栄えていた1725年から、この場所で酒造りを行っています。
造り酒屋が少なくなったいわき市で、300年近くも続いていることについて、「小さくやっていたから。儲けをあまり考えずね」と、社長の大平さんは笑いながら話します。
20年以上前から杜氏も務めている大平さんは「手を抜くとしっぺ返しがくる。もろにでてくるのがお酒。造る量が少ないからこそ、全部ていねいに」と、酒造りについて語ります。
太平桜酒造が使う酒米は、全量が福島県産。その中でも、ここ数年はいわき市産の米をできるだけ使うようにしているそうです。
風評の払拭を目指し、フラガールともコラボしている「純米酒 絆」や、市内の大学生が農作業や仕込みに携わる「いわきハタチ酒プロジェクト」など、地域の方と交流をしつつ、地元産米を使用した日本酒も目立ちます。
「いわきでの地産地消にこだわって、小さい蔵だからこそできることをしていきたい」と、大平さんは思いを口にしてくれました。
いわき市を含む浜通りで2軒のみになってしまった造り酒屋は、ともに地元を愛し、地元に深く深く根を張っている酒蔵でした。
簡単には変えない― 寿々乃井酒造店(天栄村)
福島県中央部の中通り地域。その南部に天栄村があります。人口5,300人の、どこか懐かしさを覚える田園と自然豊かな山間部からなる、たいへん美しい小さな村です。そんな天栄村には、2軒の酒蔵があります。
そのひとつが、「寿々乃井」や「寿月」を醸す寿々乃井酒造店。歴史を辿ると、江戸時代から酒造りをはじめ、参勤交代の大名行列が蔵の前を通っていたというエピソードもある酒蔵です。
造りを仕切る地元出身のベテラン杜氏、永山勇雄さんは、夏場に「亀ノ尾」などの酒米をつくる農家でもあります。
蔵に嫁がれた鈴木理奈さんにお話をうかがいました。
20年以上前、嫁がれたばかりのころは、生活習慣の違いが大変な心労だったとのこと。最初の仕事は、蔵で働く蔵人たちのためにまかないをつくることでした。「今日は鍋しかみてないんじゃないかっていう日もあって。気が狂うかと思った」と笑いながら振り返っていました。
そんな中でも続けられたのは、『「おいしかったよ!こないだのうまかったね!」といってもらえたから。お客様の表情が伝わってくることで、嫌なこともケロっと忘れて続けていられる』と話してくれました。
理奈さんはじめ、寿々乃井酒造店が大事にしていることは、「容易に変えないこと」だといいます。
その言葉の裏には、今流行っていることにすぐ飛びつくのではなく、自分たちの納得できるものをつくっていきたいという思いがあるようです。実際に、昔から地元で愛されてきた普通酒に今でも重きを置いているとのこと。
理奈さんは、「安くするために適当に造ったら負け、というか。普通酒で勝負できる蔵ではありたいと思っています」と強い思いを語ってくれました。
小さな村の風土を伝える- 松崎酒造(天栄村)
30代の若手の造り手が活躍する福島県。なかでも、注目は35歳の松崎酒造の蔵元杜氏、松崎祐行さんです。
「廣戸川」の名前を全国に広め、全国新酒鑑評会では、杜氏を務めたときから今年で8年連続の金賞を受賞する快挙を成し遂げました。さらに金賞を取ったすべて出品酒は、福島産の酒米「夢の香」を使用して醸されたお酒です。
松崎さんは蔵に戻った当初、30代中盤で杜氏を務めようかと漠然と考えていたそうです。転機となったのは東日本大震災。震災後に前任の杜氏さんが心労のためか倒れてしまったため、26歳のときに急遽杜氏を務めることになりました。
杜氏になって初年度の造りに関しては、「ほんとに酵母任せというか、まずは絞れてほっとひと息でした」と振り返ります。しかし、そのような不安をよそに初年度から全国新酒鑑評会で金賞を受賞します。
「一番よかったなあと思うのは、蔵に勤める方が泣いて喜んでくれたことですね」
福島県も蔵も激動だった年。松崎さんを含め、蔵のみなさんはさまざまな募る思いを抱えていたのだろうと感じました。
松崎さんが力を入れているのが、地元農家さんとの連携です。
「できあがった酒を誰に最初に飲ませたいかといったら、農家さんであって……。彼らがつくった米から、どういう酒ができるかを知ってほしい」と話します。
農家さんの努力もあって品質は安定し、ここ数年は天栄村産「夢の香」でも鑑評会で結果を残しています。
「天栄村という小さい村の風土、景色、思いを酒といっしょに伝えていける蔵になりたい」
松崎さんは、酒造りを通して天栄村のことを発信していきたいと、酒造りにかける思いを語ってくれました。
地元を守る酒を造る- 豊国酒造(古殿町)
いわき市から内陸側に山を越えると、古殿町(ふるどのまち)があります。山に囲まれ、自然豊かな静かな町です。そんな古殿町にも地元を愛する、若き蔵元杜氏がいます。
「東豊國」を代々造り続けてきた豊国酒造の9代目、矢内賢征さんです。
現在33歳の矢内さんは、大学を卒業した10年ほど前に家業を継ぐために戻りました。東京での就職も考えていたようですが、とある有名銘柄を醸す蔵元杜氏の影響で蔵に戻る決意をしたようです。
「単純に、かっこいいと思っていた」と、当時の思いを話してくれました。
蔵に戻ってから研修を重ねる一方、2年目の造りとなる2010年冬には、新銘柄「一歩己(いぶき)」を矢内さんが主導となって造り始めます。
今でこそ「一歩己」は首都圏でも人気のある銘柄になりましたが、当時のことを「味が出なくて、おいしくなかった」「ガムシャラで余裕がなかった」と振り返ります。
それでも次の年からは、酒造りに取り組むときの気持ちに余裕ができ、徐々に思っていたものに近づけられつつあったとのこと。そんな矢先、2011年3月の東日本大震災により、取り巻く環境は大きく変化します。
「もともと地元のものを使っていたのに、地元じゃないものを使うのが嫌で」
酒米にそこまでこだわりはなかったようですが、震災を機に、地元で作っていた美山錦により一層力を入れることに。
矢内さんの酒造りでのこだわりは、全量手洗いで米を洗うこと。機械で洗ったものと比べて、仕上がりが違うとともに、「気持ちが違う」といいます。手間ひまをかけるからこそ、蔵人全員に「自分たちが造っている」という思いが生まれたとのこと。
豊国酒造の蔵人は、全員が地元出身。矢内さんは自らも含め、「素人集団です」と笑います。しかし、その裏には、地元の雇用を生み出したい。ひいては、地元を守りたいという思いがあると、気恥ずかしそうに話してくれました。
今回訪れた、いわき市、天栄村、古殿町。それぞれの酒蔵が、それぞれの地元のことを強く思い、酒造りを続けていました。
そして今後も、それぞれの地酒を造り続けていくのだろうと思います。
(旅・文/立川哲之)