およそ40年前まで、日本には、何年も熟成させて楽しむ日本酒がほとんど存在していませんでした。しかし、日本酒の歴史を振り返ると、鎌倉時代にはすでに3年熟成の酒があり、江戸時代には5~10年寝かせた熟成古酒が造られています。

明治時代になると、政府の税制によって、年を越して熟成させる酒が姿を消してしまいますが、昭和40年代に入ると、熟成古酒に挑戦する酒蔵が再び現れ始めました。この"熟成古酒の失われた100年"を、日本酒造りの歴史とともに振り返っていきます。

前回の記事では、段仕込みの始まりと火入れの技術について紹介しました。今回は、全国各地へ広がっていった地方の酒について、みていきましょう。

酒造りが盛んになりすぎて出された禁酒令

"朝廷の酒"で多様化した日本の酒造技術は「僧坊酒」で一段と進化していきます。さらに、鎌倉幕府の成立とともに、武士たちが自家用に造る酒や、民間による販売用の酒造りが盛んになりました。

酒の消費量がどんどん増えるにしたがって、過剰な飲酒がトラブルを引き起こしたり、武士の家計が困窮に追い込まれたり......さまざまな弊害が目立つようになります。さらに、大飢饉による極端な米不足への対策も兼ねて、鎌倉幕府は1252年に「沽酒禁令」を出しました。

その具体的な内容は、以下のような厳しいものだったようです。

  • 鎌倉市中での酒の販売禁止
  • 鎌倉市中の民家が所有していた合計37,274個の酒壺のなかから、各戸1個だけを残してすべて処分する
  • 諸国の市酒(いちさけ)の禁止

この令は過度の飲酒を禁止することに加えて、少しずつ力を付けてきた、酒を造って売る行商人や露天商人などの流動的な商人を排除することも大きな目的でした。

当時、鎌倉市中の民家に3万7千あまりもの酒壺があったことは、各戸が数個~数十個、なかには数百個をもつ家があったことを物語っています。そのなかには、何年間にも渡る熟成・貯蔵を目的としたものがあったのではないでしょうか。

その根拠は、同時代に見延山に隠棲した日蓮上人が、農民たちの届けてくれた酒に対して、礼状のなかで『三年の古酒(ふるさけ)』『千日(さけ)ひとつつ』『聖人(すみさけ)一つつ』『人の血を絞れる如くなる古酒(ふるさけ)』など、それらの酒が3年間も貯蔵した貴重な酒であることがわかる記述を何度も使っていることです。

そのころの農民たちは、貯蔵することで酒がさらに美味くなることを知っていて、貧しい生活のなか、仏と仰ぐ上人のためならと、なけなしの米で造った酒を3年間も貯蔵していたようですね。

"酒屋の酒"のはじまり

鎌倉幕府によって「沽酒禁令」が出されるなか、14世紀ごろから、商品経済の発展によって、従来の自給用として造られていた酒から、餞民の間で立ち上がった新興の商人や職人たちが造り始めた"酒屋の酒"が台頭していきます。それらは酒造業として、全国的に発達していきました。

なかでも京都では、応永32年(1425年)ころの調査によると、342軒もの造り酒屋が登録されていたようです。室町幕府の重要な財源が酒税だったため、酒蔵は課税の対象として登録されていました。

数ある酒屋のなかで特に有名だったのは、天下に響く芳醇な味わいと抜群の生産量を誇る柳酒屋。その当時、一般的には、100文で古酒なら酒杓で5杯、新酒なら6杯買えたものが、柳酒屋の酒は同じ100文で、古酒は3杯、新酒は4杯しか買えなかったのだそう。他の酒屋が造った酒よりも、割高だったことがわかります。

また、当時は古酒と新酒の基準がどこにあったのかわかりませんが、新酒と比べて古酒のほうが2〜3割高いことから、1年以上熟成させた酒の付加価値は高かったようです。

諸白の誕生

一方、奈良では寺院(僧坊)での酒造りが、よりいっそう盛んになります。

寺院で造られた酒、つまり僧坊酒には、「美酒言語に絶す」などといわれた真言宗の巨刹・天野山金剛寺で造られた「天野酒」をはじめ、「山樽三荷諸白上々」という評判から、織田信長が徳川家康を招いて行った盛大な饗応の宴でも提供された、菩提山正暦寺の「菩提泉(ぼだいせん)」、天台宗の名刹・釈迦山百済寺で造られた「百済寺酒」、越前国豊原の同じく天台宗の巨刹・豊原寺(ほうげんじ)で造られた「豊原酒」などがありました。

そのなかでも特に注目すべきは、菩提山正暦寺の酒「菩提泉」が、諸白で造られていることです。

それ以前までは、麹米と掛米には玄米を使用していました。少しずつ、麹に玄米、掛米に白米を使う「片白」が発達し、麹米・掛米ともに白米の「諸白」が完成します。諸白での仕込みは、酒の品質をさらに高めただけでなく、現代の酒造りにも繋がるという点で画期的な改革です。

田舎酒の台頭

応仁の大乱は、洛中洛外の酒屋土倉(さかやどぞう)に壊滅的な打撃を与えましたが、それを機に、兵庫の「西宮の旨酒」など、田舎酒といわれた地方の酒が、洛中へ進出し始めます。

さらに、「その味甘味にして京の酒に劣らず」といわれた「大津酒」(滋賀)や、「堺酒」「平野酒」(いずれも大阪)、豊臣秀吉の醍醐の花見に献上された「伊豆の江川酒」、天下の銘酒として知られ、同じく豊臣秀吉の花見にも登場する「加賀の菊酒」、練り絹のようにしっとりとしたなめらかさから名付けられた「筑前博多の練貫(ねりぬき)酒」、蒸米・麹・水を仕込んだ壺を密封して土中に埋め、翌年の土用まで熟成させた甘味の強い「麻地酒」などの田舎酒が、全国各地で銘酒として知られるようになりました。

(文/梁井宏)

◎参考文献

  • 『日本の酒 5000年』(加藤百一/技報堂出版)
  • 『酒造りの歴史』(柚木学/雄山閣BOOKS)
  • 『日本酒ルネッサンス』(小泉武夫/中公新書)

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