幕末維新以来、日本は西洋諸国から多くの技術や学問を取り入れました。そんな近代国家としての産声を上げて間もないころ、日本から西洋へ輸出した技術も存在しました。それは、高峰譲吉(たかみねじょうきち)博士による、麹を使った酒造技術。
今回は、高峰博士と、その片腕として活躍した丹波杜氏・藤木幸助の残した功績を紹介します。
明治時代に輸出された日本の酒造技術
高峰譲吉博士は嘉永7(1854)年、越中高岡(現・富山県高岡市)で漢方医の長子として生まれました。母方の実家が造り酒屋だったため、幼少期から酒造技術に関心を寄せていたことが、後年の清酒醸造における麹の技術改良につながったと言われています。
幼少の頃から語学や化学に長けていた高峰博士は、順調に学問の道を歩み、大阪医学校や工部大学校(現・東京大学工学部)などで学びました。明治12(1879)年に工部大学校応用化学科を首席で卒業すると、翌年にはスコットランドの大学に留学します。
元々、酒好きだった高峰博士は、スコッチ・ウイスキーの醸造に興味を抱きました。清酒が醸造過程でお米に含まれるデンプンを麹で糖化させるように、ウイスキーも大麦に含まれるデンプンを麦芽(モルト)の酵素によって糖化させます。
高峰博士は、ウイスキーを醸造する過程で、麦芽をつくるのにたいへんな手間がかかることに着目し、麹で代用できないかと考えました。帰国後、この構想のもと、ウイスキー醸造に日本の麹を使用することで、従来より強力なデンプンの分解力を発揮する「高峰式元麹改良法」を実現させます。
さらに、帰国後の明治19(1886)年には専売特許局次長として高橋是清らとともに特許商標制度を制定しました。翌年には、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立し、「高峰式元麹改良法」を特許出願します。
この画期的な発明は、当時のアメリカにおけるウイスキー醸造で90%ものシェアを持っていた「ウイスキートラスト」の社長 グリーン・ハット氏の目に留まり、招聘(しょうへい)される形で、明治23(1890)年に渡米することになりました。
百難に遭遇した米国生活
アメリカに渡った博士は「高峰式元麹改良法」を利用したウイスキー醸造の開発に取り組み、苦心の末その製法を確立。シカゴのペオリヤに完成した新工場で大規模な生産を始めました。
しかし、この画期的な麹を使ったウイスキーの製法は頓挫。それまで麦芽をつくっていた製麦業者が一斉に反発し、排撃運動に乗り出したのです。
工場のまわりをデモが取り囲み、夜間の外出もままならない危険な状況が続いたそうです。最終的には、暗殺未遂や工場の焼き払いなど、尋常ではない手段による妨害を受けます。
結果、製麦業者によるロビー活動などもあり、アメリカ政府から解散命令を受ける事態となってしまいました。
それでも高峰博士は不屈の精神でこの苦境に打ち勝ち、新たな発見を生み出します。
ウイスキー製造で排除された麹を水に浸し、アルコールを加えたあとに出来上がったデンプンを粉末にしたところ、それまでだれもが経験したことのない強力な酵素作用を発見しました。
抽出に成功した、デンプンを分解する酵素であるアミラーゼのひとつ"ジアスターゼ"に、自らの名前から"タカ"をとり、「タカジアスターゼ」と名付けられたこの医薬品は、今も胃腸薬や消化剤として世界で広く使われています。
「タカジアスターゼ」の発見以来、酵素化学は目覚ましい発展を遂げました。後に世界各国で生まれた酵素をつかった産業の礎を築いたのは高峰博士の「タカジアスターゼ」と言っても過言ではありません。
高峰博士の研究を支えた丹波杜氏・藤木幸助
丹波篠山 矢上城跡 戦国時代波多野氏の居城
前述のように高峰博士が実業家・渋沢栄一らの支援を受け、渡米したのは明治23(1890)年のことでした。このとき助手として随行したのが、堺にある肥塚商店で出稼ぎ仕事をしていた藤木幸助でした。
藤木は嘉永元(1851)年に丹波杜氏の里、多紀郡城東町泉(現・兵庫県篠山市)の農家の三男として誕生。この地の習慣で冬場は酒屋男として働きに出るため、16歳から酒屋仕事を始めます。
人一倍の努力の成果もあって、20歳で当時最年少の大師(だいし)として麹造りのリーダーに抜擢されました。
当時、将来を担う杜氏候補のエリートは、まず大師を経験して出世コースを歩んでいくと言われていたので、その優秀さがうかがえますね。
肥塚商店で手腕を認められた藤木は、同社の取引先である三井物産の醸造技師・肥田密三から、東京の研究室で働くよう要請を受けます。そして明治15(1882)年、肥田研究室の助手として上京し、酵母や醸造技術の理論的知識を習得しました。
月日は流れて、明治22(1889)年のある日、帰国中の高峰博士は学友であった肥田の下を訪れます。渡米にあたって優秀な助手を必要としていた博士の依頼に、肥田はもっとも信頼する藤木を紹介。
こうして藤木は明治23(1990)年から7年間、シカゴから約90キロ離れた高原の町ピオリヤで、高峰博士の片腕としてすばらしい働きを見せました。
高峰博士は藤木の尽力に対する感謝を忘れることなく、後に藤木の自宅を訪れ、「幸助、よくもこうして達者でいてくれた。お前のおかげで、この高峰も男になった。ジアスターゼはこの幸助が居てくれたので出来たのである」との言葉を残しています。
藤木幸助の記念碑
もし製麦業者による妨害がなければ全米のウイスキーが高峰博士らによる「高峰式元麹改良法」に切り替えられていたかもしれません。歴史に消えたウイスキー革命を仕掛けたのは、日本の発酵技術であり、丹波杜氏の酒造りだったのです。
高峰博士のその後
「百難に遭遇した米国生活」と言わしめるほどの苦渋に満ちた米国生活でしたが、「タカジアスターゼ」の発売により博士の名声は確固たるものとなりました。ニューヨークにあるウッドローン墓地、ここは高峰博士が埋葬されている墓地。そこにある案内には次のような文言が記されています。
「1896年にデンプン分解酵素を開発し"近代バイオテクノロジーの父"として認めらる。1900年には世界初の科学者としてアドレナリンを分離し、1912年にはワシントンD.C.の河畔を美化している有名な桜の木を寄贈した」
現在、世の中で100年以上利用されている薬は3つしかないと言われています。
それは「タカジアスターゼ」「アドレナリン」「アスピリン」。なんと、そのうちの2つ、タカジアスターゼとアドレナリンが高峰博士の功績なのであります。
また、高峰博士はワシントンへ桜の木を寄贈するプロジェクトにも尽力されました。
当時の東京市長・尾崎行雄が2000本の桜を贈る計画を立てたとき、高峰は日本領事の水野幸吉とともに大統領夫人を訪れ、その計画を打診。この時移植された桜の木は害虫や病気のため、大部分が焼却されましたが、のちに6000本が再び寄贈され現在に引き継がれてきました。
ワシントンD.C.で盛大に開催される桜祭りは昭和10(1935)年から、第二次世界大戦中を除いて毎年行われており、世界中から人が集まる米国の首都で、日本のさまざまな文化を楽しむことができる一大イベントです。
日本酒造りに欠かせない麹は、弥生時代以降に大陸から製法が伝わって以来、今日に至っても研究が積み重ねられ、多くの分野に応用されています。平成18(2006)年には日本醸造学会大会において、麹菌(Aspergillus oryzae)が「国菌」として認定されました。
ワシントンD.C.を訪れた際は、高峰博士がアメリカに伝えた日本の誇り、国菌である麹菌(=糀)と国花である桜、2つの花を愛でつつ花見酒を楽しみたいと思うのです。
(文/湊 洋志)
<参考文献>
- 『丹波史 第33号 アメリカに渡った丹波杜氏 -藤木幸助翁-』
- 藤木幸雄『-タカジアスターゼの出来るまで- 藤木幸助伝』(1962)
- 坂口謹一郎『日本の酒』(1964)
- 飯沼和正、菅野富夫『高峰譲吉の生涯 -アドレナリン発見の真実-』(2000)