ワインの名産地として知られるフランス・ブルゴーニュ地方のように、将来は“SHONAI, YAMAGATA”が世界に知られる日がくるのかもしれません。その地方のことを深くは知らない。ただ、「あの酒が生まれた場所」としての憧れと尊敬を持って。
日本酒業界のパイオニアが、いま着々と実績を重ねています。山形県酒田市で天保三年(1832年)から酒造りを営んできた楯の川酒造。これまで幾度の変化を経ながら、平成22BY(醸造年度)から精米歩合50%以下の純米大吟醸酒の全量醸造に振り切りました。
2017年10月1日には「精米歩合1%」という前例のない「純米大吟醸 光明(こうみょう)」を発売。四合瓶10万8千円の値付けにもかかわらず「完売」という前例を打ち立てています。
蔵を率いるのは、六代目蔵元の佐藤淳平社長。“世界を代表するSake TATENOKAWAを目指して”をテーマにした「TATENOKAWA100年ビジョン」を掲げる彼らの狙いとは?
この度スタートする連載企画の第1回では、佐藤社長が見据える日本酒の未来、そして楯の川酒造の未来について、ご本人へのインタビューを中心にお届けします。
苦しい時期を乗り越え、小さな蔵が踏み出した大きな一歩
「雪が積もると見た目が似るのですが、富士山より鳥海山のほうがきれいだと思う、と地元の人なら言いますよ」
日本有数の米どころである庄内は、良質な水源も相まって、酒どころとしても知られます。
現在39歳の佐藤社長。先代が大学在学中に亡くなり、大学3年生の時に楯の川酒造の社長に就任しています。とはいえ、当時は学生だったため会社の事業には携わらず、専務である母・恵子さんが会社を仕切っていました。その年の造りは750kgの本醸造のタンクが4本(約40石)のみという、まさに"いつ潰れてもおかしくない"状況だったそう。「蔵だけは何とか残したい」という気持ちを持ちながらも、 学生の自分には何もできず無力さを味わったといいます。
その後、2001年に東京農業大学を卒業し、神奈川県の酒問屋で半年の修業を経て、家業である楯の川酒造に戻りました。その際のメンバーは、母・恵子さんに加えて社員2名とパート1名、そして自分の5名。経営は依然として苦しかったそうですが、佐藤社長は改革を進めていきました。
「以前まではビール問屋なども営んでいましたが、酒蔵経営だけに事業を整理しました。まずは山とあった在庫の処分売りから。商品のブランド名も『楯の川』から、文献を調べて初代からの銘柄であった『楯野川』に改めました。心機一転して特定名称酒に力を入れ、県外に販路を求めようという思いでした。小さな変化ながら、蔵にとっては大きな一歩でしたね」
もともと小学生から歴史好き。戦国時代や三国時代には特に心動かされ、テレビゲーム『信長の野望』はのめり込んだといいます。
「今でも『信長の野望』は買っています(笑)。時間がなく、なかなかプレイできませんが……もしかしたら、それで人材投資の感覚を磨いたのかも。どこか会社経営にも似ていますよね」
「やりたいことをやる」思い切りが生んだ逆転劇
佐藤社長の経歴を見てもわかるように、大学卒業後にすぐ家業に就き、先代はいない状況。良い見方をすれば「先例なき道を作ること」にためらいが起きにくかったといえるかもしれません。大胆に舵取りを続け、6年ほどで売上が立ってきたところで、時は焼酎ブーム。粕取り焼酎をつくる設備も入れますが、「これが盛大にコケた」と佐藤社長は苦笑い。
「同時に梅酒ブームも来ていました。そこで後発ながら、売れ残った焼酎を使ってタンク1本の梅酒を仕込んで参入してみたところ、これがヒットしたんです。山形は果物大国ということもあって、3年でリキュールの売り上げが日本酒の倍にもなった。自分でも邪道であるとは思っていましたが、一方で『評価はお客さんが決めるべき』と気づいた瞬間でもありました」
しかしながら、佐藤社長は「リキュールは短期決戦。他にも参入があるだろうから3年が勝負」と心に決めていたといいます。リキュールの売り上げがピークのときに、再び日本酒造りに本腰を入れ、「全量純米大吟醸化」を図ったのです。純米吟醸だけに絞ることも検討したそうですが、最終的には思い切って純米大吟醸だけに。その根底には「面白いこと、やりたいことをやる」というシンプルな心がけがあります。
「もともとアル添品種がなかったことに加え、当時は生産量500石ほどの小さい酒蔵で守るものもないですから、ベンチャー発想でトライできたのが良かった。今でもダメだったらすぐやめればよくて、まずやるのが大事だと思っています。評価を決めるのはお客さんですから」
「TATENOKAWA100年ビジョン」は、ある事件のピンチから
全量純米大吟醸にして2年目の頃、ある事件が起こりました。ヨーグルトのリキュールに、ある若手社員が砂糖を入れ忘れて製造してしまったのです。その責任を取る形で製造責任者が退職。それに伴って辞める者もおり、8名いた製造部がアルバイトの3人だけに。
「僕も製造に戻ることでなんとか切り抜けたんですが、これは根本的に働き方の発想を変えなければと危機感を覚えました。僕がガツガツ引っ張るというより、みんなで一緒に伸ばしていこうよ、というほうがいいんじゃないかと思ったんです」
この時期に、佐藤社長は5項目からなる「TATENOKAWA100年ビジョン」を制定します。これはソフトバンクグループ創業者である孫正義氏の発言に影響を受けたもので、社員への方針を定め、また自分自身の意志やコミットメントを高める狙いがありました。社員一人ひとりが当事者意識を持ち、社員を原動力として会社を成長させたいという思いも込められています。
TATENOKAWA100年ビジョン
- 日本酒の美味しさで人々を幸せに
- 上質で愛される酒造り
- 2030年 世界を代表するSake TATENOKAWAに
- 社員の成長により、100年以上成長し続ける会社に
- 2110年 世界中の高級日本食レストランで提供される日本酒に
「とはいえ、このビジョン自体はそれほど積極的に社内共有もしていません。むしろ、毎日の朝礼で経営理念や、僕らの『楯の川酒造フィロソフィー』を唱和するようにしています(※フィロソフィーについては連載第2回にて)。今は大きいことをやるというよりも、毎日の積み重ね。来年のことや、もっと短く言うなら1ヶ月後、あるいは来週のことなら、だいたいわかる。その一歩一歩の積み重ねかな、と」
目線は100年先。けれど、やるべきことは今日や明日。この“2つの視点”が合わさって、楯の川酒造はドライブしているのです。
精米歩合は「ワインの年代」と同じ世界に通用する価値
ビジョンに「世界中」という言葉が含まれることからも分かるように、佐藤社長は海外輸出戦略と未来への投資を惜しみません。
「輸出は伸びる方向しかないと思っています。現在の海外売上比率は全体の12%ほどがですが、将来的には40%から50%になるのではないでしょうか。精米歩合が持つ『数字の威力』は思ったより強い。日本酒を飲む海外の方でも、精米歩合を知っている人は多いんです。1%精米の『光明』が3ヶ月で完売した手応えからも、数字が小さくなればなるほど高級酒だという表現のロジックは世界中に通用するだろうという感覚があります」
また設備投資も果敢に行います。その理由は、若手社員の経験をカバーするだけでなく、「昔の酒造りでは味がどこか野暮ったくなる」という佐藤社長の感覚から。目指すは「きれいで繊細、洗練され、膨らみもあって香りもある、バランスの良い酒」だといいます。
その設備投資の最たるものが、自社精米機です。全国でも自社精米機をもつ酒蔵は多くありませんが、楯の川酒造の代名詞ともいえる、丹念に磨いた米を使用したお酒を生み出すためには欠かせないもの。現在2台の精米機を有していますが、2018年8月頃にはさらにもう1台追加する予定です。
さらに、使用する酒米にも徹底的にこだわります。農薬を使わない有機栽培米を積極的に用いたり、単一農家で酒米を揃えたりと、安全性や品質の安定化に努めると共に、「今後は全体の2割から3割くらいは自社で米作りがやりたい」という展望を持っています。
すでに酒米づくりのプロフェッショナルであると農家と協力体制がある中で、あえて自社のリソースも活用する理由を問うと、佐藤社長は見落とされがちな現状を指摘しました。
「農家さんも60代や70代の方が圧倒的に多く、跡継ぎもなく辞めていかれる方も多い。弊社の契約農家に限ったことではなく日本全体で起こっていることだと思います。僕らの仕事は酒米がないと成り立ちません。しかし日本の大半の酒造は、組合や農協に一括で酒米を頼んでいるだけなんです。つまり、生命線を切られると酒造りができない。だからこそ、リスクを最低限に抑えつつ自社のリソースを割くことで、原料生産から酒造り、販売までやるビジネスモデルが一つのストーリーになり、他社との差別化にもつながると考えています」
地元の契約農家を支えるだけでなく、肥沃な庄内平野の光景をも変える可能性を、楯の川酒造は持っているかもしれません。米作りから酒造りまでをワンストップで行い、その酒が世界中で評価される。これは、日本のひとつの地域が、“SHONAI, YAMAGATA”として世界から憧れられる土地になっていくストーリーでもあるのです。
酒造りへの愛情を持ちながら、未来発想で事業展開していく
今後の展望をさらに聞くと、佐藤社長は「本業は酒造業だけれども、こだわっているつもりもあまりない」とバッサリ。
「将来、日本酒が売り上げの1割くらいしかなかったとしても良いと思っています。どんな新しいことでも次々にやっていける会社として、100年後のゴールを目指したい。そのために僕が出来ることは、今のうちにやっておきたいですね」
愛情を持って酒造りをする一方、その情熱と同じくらいに一歩引き、客観的に見る自分が必要だと考えているといいます。「多岐にわたる事業展開」は、「TATENOKAWA100年ビジョン」が影響を受けた孫正義氏の経営にも通ずる点があります。
「孫さんほどではなくとも、いかようにも、柔軟に、という姿勢を目指したい」と佐藤社長。次なる一手として仕掛けるのは、ブドウづくりから手がけるワイン醸造です。山形県はブドウの生産量では全国4位。将来を見据えた新たな挑戦をしています。
さらに2014年4月には、山形県鶴岡市の酒蔵「奥羽自慢」を引き継ぎ、事業再生に着手しました。
「ワインの醸造も、奥羽自慢の再生も未来発想。100年後の、僕の孫の孫の代まで続くような価値ある事業を考えています。ただ、今はめちゃくちゃしんどいですけどね……(笑)。でも長期的に見たら今やるべきだし、ここで挫折するわけにもいきせんから」
穏やかな口調のまま淡々と語る佐藤社長でしたが、言葉の裏にあるのは見えない苦労と、強い意志。「光明」がヒットしたのは、嗜好品としての需要が高まっている時代の流れに合っていたから、という見方もできるでしょう。しかし、2015年にノーベル生理学・医学賞を得た大村智さんは、フランスの生化学者・パスツールの名言である「幸運は準備された心に訪れる」を下敷きに、こんな言葉を残しています。
「幸運は強い意志を好む」
楯の川酒造が引き寄せた“光明”は、まさに酒名そのままの先導となって、日本酒業界の未来を照らしているのかもしれません。
(取材・文/長谷川賢人)
sponsored by 楯の川酒造株式会社