世界の最先端とも言える多民族国家シンガポール。人口およそ561万人のうち、中華系が7割以上を占め、独立してから50年と経っていない若い国です。

一人当たりのGDPはいまや日本の38,440米ドルをはるかに超え、57,713米ドル(2017年)。家計消費に関していうと、月収12,000シンガポールドル(98万8000円)以上の富裕層は全国民の3割を超え、食費全体に占める外食費の割合が62%と、可処分所得が高く、外食文化が根を下ろしているのが特徴です。

※データ出典元:JETRO

Singaporeの夜景

その中でも特筆すべきは日本食人気の高まりです。シンガポールの日本食レストランは全飲食店の約16%を占め、外食の選択肢のひとつとして定着しています。

メイドインジャパンへの食への信頼は厚く、高いけれども安心・安全であるというイメージがあります。実利的で本物志向のため、日本食を楽しむために日本へ旅行するシンガポーリアンも急増中。そのような旅行経験を積んだ人たちが、帰国後も日本の味に近いものを求める傾向があるようです。

まるで東京のような、日本酒売り場の品ぞろえ

2015年から2017年までの3年間で販売額が1.4倍に増加するほど、シンガポールの日本酒市場も活況です。

たとえば、クラークキーにほど近いリャンコートにある日系食料品店「MEIJIYAスーパーマーケット」や、オーチャードロードにある「伊勢丹」での品揃えは、もはや日本とほぼ変わらない印象があります。

しかし、価格は日本と同じというわけにはいかず、輸入コストや関税などの影響でかなり高くなっています。日本の2倍以上の値段で売られていました。

シンガポールの酒屋

シンガポールで日本酒が高くても売れるのには、"キアス"と呼ばれる国民性が深く関わっています。

"キアス"は、シンガポールが激しい競争社会であることや、一度ドロップアウトしたときのセーフガードが乏しいことに起因する負けず嫌い精神のようなものです。他人より頭一つ抜き出たいと必死で、金銭的・社会的にどれだけ成功するかについて現実的でドライな側面もあります。

また、建国以来の歴史が浅く、もともと中継貿易で栄えてきた都市だけに「自分たちでものをつくることをしない」という自覚もあるなかで、「本物」を見ぬく目利きには人一倍こだわるのが、シンガポーリアンです。

そんな彼らの日本酒の買い方というと、「ストーリー性があって美味しい、他人が飲んだことのない珍しい日本酒を飲んで人に自慢したい」という心理が見られるのだといいます。

シンガポールの国民性に注目した日本酒スタートアップ

Eugene Wongさん

そんなシンガポーリアンの"キアス"精神に目をつけ、2016年に日本酒スタートアップ「Mr.Otaru」を起業したのが、Eugene Wongさん(37歳)です。主に高級レストランに希少で高品質の日本酒を卸しています。

「僕の仕事はサケ・キュレーター、っていうところでしょうか」と笑います。彼が持ってくるお酒は「唯一無二の個性がある素晴らしい酒」として現地のレストランオーナーに受け入れられつつあります。

現在の取扱銘柄は7銘柄と少数ながら、みずから日本まで足を運んで、酒造りの哲学、味、品質管理、地域に根づく酒にまつわるストーリーに心を動かされた酒蔵とだけ付き合いをするというスタンスを崩しません。そのような酒蔵のことを、彼は経緯を込めて「boutique producer」と呼んでいます。

たとえ、日本では県外に一切出ない少量生産で知名度のない日本酒であっても、美味しいもの、ストーリーがあるものに心を動かされるし、それに価値と商機があると彼は信じています。

「大きな商業ベースに乗っている蔵元の酒は、扱う人たちがたくさんいます。僕は、少量生産で、販売力の関係で地域の外には出ないかもしれないが、良心的に酒を生産している蔵元の酒を、その造っている人間や地域のストーリーごとシンガポールの消費者に届けたいんです。シンガポールには日本へ何度も行ったことがあるリピーターもすごく多くて、『日本に旅行した時のあの味が忘れられない、どうしても飲みたい』ってひとも多いんです。僕は、そこの層をねらっています」と話してくれました。

彼が日本酒と出会ったのは、東京でのイベントにて。そのとき飲んだのが奈良県・油長酒造の「風の森」でした。その後、日本酒伝道師のジョン・ゴントナーさんが提供するSake Professional Courseを修了し、Advanced Sake Professionalの称号を得ます。

会社名に、なぜ「小樽」という名前を付けたかと聞くと、共同経営者が北海道へ旅行した際に、小樽が大好きになったからなんだとか。「シンガポーリアンに人気の観光地は、なんといっても雪のある冬の北海道です!」とのこと。

サケ・キュレーターと歩くシンガポールの夜

シンガポールの寿司屋「あゆむ」

Eugeneさんに、現地の日本酒シーンを案内してもらいました。最初にやって来たのが現地資本の寿司屋「あゆむ」。

オーチャードロードのおしゃれなショッピングコンプレックスビルの中に、突然出現した数寄屋風のたたずまい。まるでここだけ東京を切り取ってきたような雰囲気で、「私は本当にシンガポールにいるのだろうか」と戸惑いました。

Simon Wongさん(左)とEugeneさん(右)

オーナーのSimon Wongさん(左)は「内装の杉はすべて日本から直輸入しました」と誇らしげです。なんと左官まで日本から呼び寄せたそう。板長は日本の方で、魚介類もすべて日本から直送されたものだそうです。

長野県上田市の信州銘醸株式会社が醸す「滝澤 純米吟醸」

Eugeneさんがこちらに卸しているのが、長野県の信州銘醸株式会社が醸す「滝澤 純米吟醸」です。日本一と言われる超軟水、和田峠の「黒耀水」を仕込みに使ったお酒です。

軟水は造りが難しい反面、米の旨味をしっかりと引き出しやすく、発酵がゆっくりと進むので、きめ細やかな淡麗な味わいになります。しつこすぎない程よいリンゴを思わせる吟醸香に、ふんわりと広がる米の旨み。お寿司によく合います。「『滝澤』はみんな大好きなんですよ!」とEugeneさん。

あゆむの寿司

「あゆむ」の客単価は、250ドル(約20,500円)から400ドル(約32,900円)以上。オーチャードロード界隈のエリートビジネスマン層が主たる顧客だといいます。50%はローカルのシンガポーリアン、日本人は20%ぐらいだそうです。

「オーチャードロードでハイエンドの寿司屋を経営するのは激しい競争にさらされています。それでも、僕は超有名店と、まともに張り合うつもりはなく、ここシンガポールに確実な足場が欲しいだけなんです」というSimonさんの言葉に、Eugeneさんも頷きます。

「お客様の信頼が一番大事なんです。この店に来れば本格的な"Tokyo Experience"ができる。日本風のおもてなしも含めて、妥協はしません」とSimonさんは付け足しました。

その中で、日本酒に対する確かな目をもつEugeneさんがすすめる日本酒のストーリー性は、オーナーのSimonさんにとっては大切だと言います。

「たとえば、原料の酒米について話しても、お客様がそれを使ったお酒に対する愛着が湧いて、じゃあ自分のビジネスにどうやって生かせるかというヒントを提供することになります。そうしたストーリーのある日本酒に、うちの店にくると必ず出会えるということが大事なんです」とSimonさんは話しました。

日本酒を「金庫」に貯蔵する元銀行のレストラン

「Bōruto」

もう一軒、Eugeneさんが日本酒を提供しているレストランに来ました。コンクリート打ちっぱなしの内装がモダンな「Bōruto」は、2015年にクラークキーそばにできたスタイリッシュ “Japanese tapas and sake bar”です。昔銀行だった建物を改装して作られています。

オーナーは、この店のほかに炉端焼きのレストランも経営しているPatrick Tanさん。「Bōruto」というのは英語の「“vault”=銀行の金庫室」を、日本語のカタカナ風に発音したものだそうです。

元金庫室の日本酒貯蔵室

2階には、金庫室を改装した日本酒貯蔵庫があり、最高級の日本酒がずらりと並べられています。

磯自慢大吟醸Nobilmente

取り扱う日本酒は30種類ぐらいあるそうです。「磯自慢 大吟醸 Nobilmente」の価格は、なんと1,788ドル(約14万7,200円)。ほかに同等の値段で「十四代」など、日本でも入手困難なものが数多くありました。

お手頃価格の日本酒も

高級酒だけけでなく、お手頃価格の日本酒もあり、幅広く豊富に取り揃えられています。レストランの客単価は、おおよそ80~120ドル(6,580~9,880円)ほど。

大阪の大門酒造、「Daimon55 純米吟醸」

こちらにEugeneさんが卸している日本酒のなかで、すすめてもらったのが大阪・大門酒造が醸す「Daimon55 純米吟醸」。柔らかい口当たり、和梨のような香りに、爽やかな酸が印象的な日本酒でした。

こちらのレストランの顧客も、ほぼ現地のシンガポーリアン。レストラン部門の賞も取っている名店で、地元の人たちに愛されているのが伝わります。

「居酒屋 酒空Shukuu」

「スタイリッシュな日本酒の楽しみ方だけではなく、カジュアルな居酒屋で気軽に酒を飲むことも根づいているんですよ」と、これまた現地資本の「居酒屋 酒空Shukuu」にも連れてきてもらいました。場所は、Central Business DistrictのTelok Ayer駅付近。

ほぼ日本と変わらない風景。しかし、日本人は全くいません。客単価はだいたい80ドル(6580円)ぐらいと、日本よりはすこしお高めながら、料理や日本酒のクオリティはほぼ変わりません。仕事終わりのシンガポーリアンたちが楽しくハイボールやビールとともに日本酒を楽しんでいました。

日系の飲食業界の手を離れ、日本酒がシンガポールの毎日の暮らしに普通に根づき始めているという現状に、大きな驚きを覚えました。

シンガポール独自の日本酒文化

シンガポールは、「海外の和食店は日本からのビジネスマン御用達の日系のお店」という従来の方程式を離れた、独自の日本酒文化が確実に根付きつつある都市だという印象を持ちました。

日本酒が「sake」として現地で真に愛されるには、日本酒を愛し理解しつつ、その土地なりの文化やメンタリティに寄り添った日本酒のプロの手が必要ではないかと思います。

その中で、Eugeneさんのようなサケ・キュレーターの需要は、これからどんどん高まっていくように思えました。今後もこのシンガポールという若い国家で日本酒がどう受け入れられていくのか、目が離せません。

(取材・文/山口吾往子)

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