2018年に新潟大学で発足した「日本酒学」。新潟大学の全10学部が関わり、醸造・発酵から流通・消費にいたるまで、日本酒に関係する文化的・科学的な幅広い分野を網羅する学問です。

日本酒学

世界初の学問「日本酒学」は、何を目的として設立されたのでしょうか。

立ち上げに携わった、新潟大学 日本酒学センターの鈴木一史教授・平田大教授・岸保行准教授に、設立の背景や現在の取り組み、今後の展望などについて話をうかがいました。

産・官・学が手を取り合った「日本酒学」

岸保行准教授

岸保行准教授

日本酒学を最初に発案したのは、新潟大学経済科学部 准教授の岸保行先生です。

もともと、日本酒の海外展開が国内市場にもたらす影響について研究していた岸先生は、農学部にも日本酒に関連する教員がいることを知り、学部を横断した日本酒学を立ち上げられないか考えました。

「海外には『ワイン学』という学問があり、ペアリングのような感性的な領域と思われるものでも、科学的な根拠に基づいて議論されています。経済科学部と農学部の有志の先生方で『ワイン学に匹敵するような学問を立ち上げられないか』と議論を重ね、農学部の鈴木先生と新潟県酒造組合に話を持っていきました」

2020年に農学部の教授に就任した、新潟県酒造組合副会長の平田大先生は、当時をこう振り返ります。

平田大教授

平田大教授

「2016年の秋、鈴木先生と岸先生が酒造組合の大平俊治会長に会いにいらっしゃいました。当時、酒造組合としても新潟清酒にまつわるさまざまな活動をしていましたが、特に海外に展開するにあたって『何かが足りない』という苦悩を感じていました。おふたりから『新潟大学に日本酒の教育研究拠点をつくりたい』という話をいただいたとき、私たちに足りなかったのは日本酒学だったと気づいたんです。

そこで、大平会長が『大学全体で取り組むのであれば協力します』とお答えしたところ、おふたりが大学内の各部門に声をかけ、同年12月に当時の学長を連れていらっしゃった。その場には新潟県醸造試験場の場長も同席していて、いわば産官学のキーパーソンがそろっていました。そこで三者の意見を確認しあい、2017年5月に、新潟県知事・県酒造組合長・新潟大学長による官産学の三者連携協定(日本酒学の世界的拠点形成のための)が締結され、日本酒学の活動がスタートしたんです」

鈴木一史教授

鈴木一史教授

「新潟県には、全88蔵が加盟している新潟県酒造組合があり、都道府県立として全国で唯一の日本酒専門の醸造試験場もあります。日本酒学を成立させるには、産官学が一体になって取り組む必要がありますが、これだけの環境が整っている県は新潟だけではないでしょうか」と、鈴木先生は話します。

平田先生も「社会全体を巻き込んで大きなうねりを作るときは、産官学の連携が不可欠です。酒造組合に加盟している酒蔵は、営業面ではライバル同士とはいえ、『新潟の酒を良くしよう』という意味では足並みがそろっています。そうした団結力があったうえで、県知事・大学長・酒造組合長というトップ同士が揃ったことが鍵になりました」と続けます。

新潟清酒を国内外でアピールするための起爆剤を必要としていた酒造組合。県産品としての日本酒をPRしたい新潟県。日本酒に関する学問を作りあげたい新潟大学。産官学それぞれの思惑が一致して、話はスムーズに進んでいきました。

総合大学だからできたアプローチ

日本酒学は、醸造・発酵などの造りの領域から、流通流通・販売などの消費に関係する領域、さらには健康・酒税・地域性・歴史・文化・法律などのより広い観点の領域を内包した総合科学としての新しい学問分野になります。

新潟大学

「新潟大学には10の学部がありますが、それぞれが日本酒を切り口にして関わることができる。ひとつのテーマに対してすべての学問が関われるコンセプトはなかなかありませんよね」と、平田先生。

岸先生も「総合大学の強みを生かして、日本酒を多角的に研究していく。新潟大学だからこそできるアプローチです」と、うなずきます。

「講義を考えるときは、新潟県醸造試験場と新潟県酒造組合との3者で何度も検討を重ねました」(鈴木先生)

在学生向けに提供している日本酒学の講義は、座学をメインとした「日本酒学A」と、酒蔵見学や醸造試験場での唎き酒などの実践を行う「日本酒学B」。そして来年度からは、日本酒学センターに所属する若手教員が中心となって、各自の研究内容をわかりやすく講義する「日本酒学C」がスタートします。

日本酒学講義様子

「座学の講義はお酒を飲むわけではないので、20歳未満でも受講できます。聴講生の多くは20歳未満の1〜2年生ですが、3〜4年生も受講しています」と鈴木先生。飲酒のマナーやアルコールが人体に与える影響を教える講義もあり、学生に向けてのアルコール教育という役割も担っています。

「聴講希望の理由を見ると、『日本酒の知識をきちんと身につけたい』『マナーを守って、格好良く飲める大人になりたい』という声をよく聞きます。『新潟県は酒どころだから』という理由も多く、若い人々も自分のルーツに対する興味を持っているのだと思い知らされました」と、平田先生。

「若い人々にとって日本酒はハードルが高く、飲み放題に入っている酔うためのお酒というイメージを持つ学生も少なくありません。学生に日本酒の良さを知ってもらうことは、消費者の裾野を広げますし、伝統文化や世界での展開を知ってもらうことで、将来的な日本酒の担い手を育成する側面もあります」と、岸先生も続けます。

日本酒学講義様子

2018年にスタートした日本酒学は、当初300名という定員に対して、800名以上の聴講希望がありました。近年は1,000名を超える希望があり、超人気の講義になっています。

「履修者数が多い講義は、回数を経るごとに人数が減っていくものなんですが、日本酒学はずっと受講者が減らないんですよ」(岸先生)

「日本酒学を受講するために新潟大学に入学したという人もいるほどです。農学部の学生からは『醸造に興味を持って日本酒学を受講したが、経済・歴史・文化の話を聞いて世界観が広がった』という話も聞きます。日本酒学がきっかけで酒造メーカーに就職した例もありましたね」(鈴木先生)

学外向けには、8本の講義サンプルを5分間の映像にまとめてYouTubeにアップしています。新潟市や長岡市などからは、一般向けの公開講座の開催リクエストがありました。鈴木先生は「期待や要望がたくさんあることは認識していますので、今後も学外向けに公開講座を開催できれば」と話します。

世界のワインネットワークとも連携

日本酒学センターは、2019年にフランス・ボルドー大学と同大学のブドウ・ワイン科学研究所(Institute of Vine & Wine Science、通称:ISVV)、2020年にアメリカ・カリフォルニア大学デービス校(UCデービス)と交流協定を締結しました。また、ワイン学の発展と拡大を目的とした国際ネットワーク「OENOVITI INTERNATIONAL NETWORK」にも加盟しています。

「ワイン学は醸造だけではなく、ぶどう栽培や観光、販売など、ワインにまつわるあらゆる研究が集まった学問です。日本酒学はこれを手本にしていて、ボルドー大学やUCデービスの教育研究機関から学んでいこうとしています。

OENOVITI INTERNATIONAL NETWORKには、先方から『加盟してほしい』とお誘いいただきました。ワインのネットワークとつながることで、日本酒を世界的に発信できる場を得ました」(鈴木先生)

「ISVVを初めて訪問したとき、Alain Blanchard所長から『産官学の三者が連携していることは素晴らしい』と褒めていただきました。ISVVは設立当初、三者連携を達成するために苦労したらしく、私たちは既にその連携があるからがんばってほしいとエールを受けたのです」(平田先生)

世界各国でワイン学に携わる第一人者たちと交流しているうちに、ワインの世界にとっても日本酒が興味深い題材であることを知ったそうです。

「UCデービスのRobert Mondavi Instituteを訪問した際、『日本酒はどうして毎年品質が安定しているのか』とたずねられました。同研究所長のAndrew Waterhouse教授からは、『日本酒の発酵はミステリアスだ』と言われましたね。

我々にとっては当たり前のことですが、ワインの人々が神秘的だと感じているのが興味深く、日本酒の魅力を伝える余地を感じました」(平田先生)

日本酒を通して、世界を知る

ワインの世界の人々をも惹きつける日本酒。そもそも、3人はどのような知的探究心をもって日本酒研究に取り組んでいるのでしょうか。

鈴木先生の研究活動

藤の花から酵母を分離している様子

農学部の教授である鈴木先生は、応用微生物学が専門です。

「私は微生物の機能を研究していますが、日本酒については酵母や麹菌といった微生物の機能や、生命現象の複雑さに興味を持っています。日本酒にはまだまだ解明されていないことが多く、酵母や麹菌以外の微生物が働いている可能性も秘めています。そうした科学的な深さを探求していきたいですね」

平田先生の研究活動

出芽酵母

新潟県醸造試験場の研究員としての経歴を持ち、英国癌研究所での研究歴もある農学部教授の平田先生。

「酵母や米、麹など、醸造を対象に幅広い研究をしてきましたが、主に酵母を、醸造のツールという面と、健康や長寿を理解するためのモデル生物という面の2つの切り口で研究しています。日本酒は科学の世界でもまだまだ謎が多くおもしろい世界なので、科学者にはどんどん入ってきてほしいです」

岸先生の研究活動

シンガポールで実施した、SAKEの卸業者へのヒアリング調査の様子

経済科学部で日本酒の海外展開が国内市場にもたらす影響にまつわる研究を行う岸先生は、日本酒が持つ多様な世界観に興味をひかれるといいます。

「日本酒をこよなく愛する愛飲家の方々といっしょにお酒を飲む機会がありますが、並々ならぬ日本酒への愛情・愛着を感じ、『この人たちは、なぜこの液体に情熱を燃やすのだろう。日本酒は単なるアルコールではなく、とても意味的で重層的な世界なのではないか』と思うようになってきたんです。

ワインは農業的な世界から生まれました。日本酒は工業的な世界である一方、伝統文化的な側面も持っています。日本酒の世界にワインの考え方が入り込んできて、テロワールやマリアージュといったワインの作法を取り入れることも始まりました。新しい物事は、ゼロから生まれるのではなく、外部の既存の要素を取り込みながら、新しいオリジナルな世界が創り上げられていく。日本酒は、今まさに、その入り口にいます。日本酒を通して、これからどんな世界が作られていくのか、そこに興味があるんです」

日本酒学の発展とネットワークづくり

新型コロナウイルスの感染拡大により、ボルドー大学でのサマースクールをはじめ、2020年に予定していた企画が次々中止になりました。文化庁の事業として、日本酒に関心の強い国外の観光客に向けて準備されていた「日本博 新潟発!知のツーリズム『日本酒学(Sakeology)』文化体験プログラム」も、オンラインで実施されました。

文化体験プログラムの様子

文化体験プログラムの様子

コロナ禍の中、日本酒学は、これからどのような広がりをみせるのでしょうか。

「『知のツーリズム』は、日本酒学とツーリズムを合わせ、日本酒に関心の高い人たちに新潟県へ来てもらい、日本酒に関わる多方面の内容を体系的に科学的に学んでもらうプログラムです。将来的には、英語で授業を展開し、履修証明を出せるようにしたいと考えています」(岸先生)

平田先生は「コロナによって、社会は急速に変わりました。取り巻く情報量は増えましたが、教育の現場では、それらをどのように扱うかが今後の鍵になると思います。根本的な考え方は変わりませんが、ウィズコロナの時代に対応するため、日本酒学としても、手段を変えていくことも大切という認識です」と分析します。

岸先生も、「YouTubeをはじめとしたソーシャルメディアを駆使するなど、手段の部分は変化しますが、『日本酒学という学問分野を構築する』という本質的な部分は変わりません」と同意します。

産学地域連携棟の写真

2021年2月には、日本酒学センターの拠点が産学地域連携棟内にオープンし、セミナー室やきき酒実習室、展示スペースのほか、試験醸造設備なども導入予定です。

「この施設は、時期を見てお披露目する予定です。日本酒学センターの存在によって、多様な学生が新潟大学に集い、国内外から人々がやってきて、教育・研究はもちろんのこと、観光などのさまざまな分野にも繋がっていけばと思っています」(鈴木先生)

また、こうした日本酒学の取り組みは新潟大学だけに留まることなく、全国に波及していってほしいと考えているようです。

「神戸大学では日本酒学の講義が2018年後期から始まりましたし、他の大学からも問い合わせが来ています。私たちの取り組みについて教えてほしいという希望があれば、仕組みづくりについてお話しする準備はできています」(平田先生)

「新潟の地でスタートした日本酒学ですが、日本酒学は『学』として普遍のものですので、世界のワイン学に追随するためにも、新潟県に留まることなく、国内・国外で日本酒学の取り組みの環を広げていきたいですね。これから大学間の連携にも尽力するつもりです。OENOVITI INTERNATIONAL NETWORKのような日本酒学のネットワークを国内で作り、オールジャパン体制で世界に羽ばたく日本酒学を構築していきたいです」(岸先生)

日本酒というひとつのテーマをもとに、学問・産業・行政の現場をつなぐ新潟大学の日本酒学。日本酒そのものの学問として深化していくと同時に、日本酒がワインと同じように世界中で研究され、普及していく未来に期待します。

(取材・文:Saki Kimura/編集:SAKETIMES)

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