直営店「酒々井まがり家」の運営や酒蔵見学有料化など、様々な改革を行ってきた飯沼本家。SAKETIMESでは、これまで飯沼本家の"今”と“これから”についてご紹介してきましたが、飯沼本家は300年という長い歴史のある酒蔵。今回は、飯沼本家の歴史を遡り、日本酒が時代とともにどう変化していったのか、その中で飯沼本家が地元・酒々井とともにどんな変革を繰り返してきたのかを探るべく、本家15代目当主である取締役社長・飯沼喜市郎さんと、喜市郎さんの奥様である飯沼本家取締役・飯沼幹子さんにお話をお伺いしました。
(左)株式会社飯沼本家 代表取締役社長 飯沼喜市郎さん
(右)株式会社飯沼本家 取締役 飯沼幹子さん
飯沼本家の歴史は400年? 江戸時代初期より始まる飯沼本家の酒造り
― 飯沼本家の日本酒造りは300年の歴史があるとのことですが、酒造業を始めたきっかけは何だったのでしょうか?
喜市郎氏「飯沼本家がこの酒々井に住み着いたのは、おそらく400年程前のことです。代々当主が住む母屋を調査したところ、これまで大きな改造を4度行ったことが分かり、その最初の改造における木の組み方・鉋の削り方などが、350年より前の技術を用いたものだったんです。また、先代の位牌には、徳川時代初期の年号があり、この時代よりもっと前に住んでいた可能性もあります。
飯沼本家では、代々当主を「治右衛門(じえもん)」と称し、飯沼家を守ってきました。もともとは農業と林業を営んでいましたが、元禄年間(1688年〜1704年)に江戸幕府より神社仏閣に奉納するためのお酒を造る許可を頂き、日本酒造りが始まりました。その後、商売用に日本酒造りを行い正式な酒屋になったのは、江戸末期です。江戸〜明治の移行期に、政府が財政確保のため、地方の有力者に対して酒税納付を義務とした酒造免許を与えたところから酒造りの商いが始まったのです」
深い歴史を感じる飯沼本家敷地内の蔵
― 400年の歴史とは、想像もつきません…。こういった歴史はどのように残されているのですか?
幹子氏「語り継がれる部分もありますが、江戸末期〜明治初期を生きた10代目・治右衛門にまつわる文献を残しています。
文章中に『飯沼氏元ヨリ郷ノ右族為リ、中世ヨリ頗ル荒レル』と記されています。中世は、江戸時代より前の時代を指しているので、おそらく江戸前より飯沼家が存在し没落した時代があったのでしょう。その後『農事ト二三ノ商事ヲ兼営シ』、つまり農業の他に林業やお茶栽培などさまざまな商いをする中で、酒造りもその中のひとつだったのだと思います。
その後『明治初年、醸舎ヲ大設シ、以て酒ヲ醸ス』とあるように、明治初期に日本酒醸造所を設立し、本格的に日本酒造りを始めたのです。
江戸時代は隔年で日本酒を造り、お神酒として奉納していましたが、この明治初年から毎年造るようになりました。蔵元当主を筆頭に酒造りに励みつつ、日本酒が徐々に人気を博し、地元のみでなくその他の地域にも売れるようになった姿が書かれています。
また、文章は佐倉藩の方の名前が記されており、当時から地元の藩と深い関係を持ちながら事業を展開していた裏付けになります」
明治時代の飯沼本家・酒蔵の様子
徳川時代以前から続く家柄? 400年以上前に建てられ今も先代が住む母屋!? 想像以上の壮大な歴史に息を呑むばかり…。そんな飯沼本家は、酒々井のお神酒として日本酒造りをはじめ、酒々井とともに歩みをすすめてきました。地元・酒々井との歴史には、どんなドラマがあるのでしょうか。
地元・酒々井と共に生きる飯沼本家
― 地元・酒々井に関する歴史的なエピソードを教えてください。
喜市郎氏「南酒々井という駅を自分たちでつくったことですね。明治35年に千葉で一番大きな町である船橋〜銚子間に鉄道が通ったのですが、酒々井には駅がありませんでした。ならばつくろうということで、土地と資金をだして、南酒々井という駅をつくり、鉄道を引きました。それまでは大きな出荷は馬と水運でしたが、汽車にのせることによって銚子や東京まで売りにいけるようになったんです。鉄道をつくったことで、日本酒以外でなく酒々井の人々も移動がしやすくなり、町全体の発展に繋がりました」
― 脈々と受け継がれる、地元・酒々井に対する想いは?
喜一郎氏「酒々井は文字通り『酒の井戸』という由来の町。酒という文字がついている町は、日本で2つしかありません。飯沼本家が発展すれば酒々井が発展し、酒々井が発展すれば飯沼本家が発展するという相互関係にあると思っています。ですので、当時はもちろんすべて地元の米を使っていました。戦後の日本酒製造工業化により、一部他の地域での米を使用するようになりましたが、現在もこの酒々井で酒米を造り続けています」
酒税・世界大戦・出稼ぎ…時代とともに歩む飯沼本家
― 戦前の世界対戦の際、食料が枯渇する中、日本酒業界全体はどのような動向だったのでしょうか?
幹子氏「当時日本酒は、必需品に近い状態。戦時中とはいえ、年中行事に日本酒は欠かせませんでした。また行事以外でも、お酒を飲むことが唯一の癒しになっていた時代です。ですので、お酒が造れないわけではなく、逆に統治経済の中で、お酒造りのための米を確保することに奔走していました」
昭和13年(1938年) 第二次世界大戦前の、飯沼本家酒蔵の様子
喜市郎氏「明治〜戦後しばらくまで、政府により各酒蔵には造る量が規制されていたんです。さらに酒を造りたければ、他の酒蔵から酒造りの権利を買わなければなりませんでした。日本酒は近年までかなり規制のかかった市場だったんです。
とはいえ、日本人にとって日本酒は飲む以外に料理でも使用するなど、日常生活に当たり前にあるもの。当時は各家庭に一升瓶があり、生活の中にとけ込む “普通”の日用品でした」
― これまでの歴史の中で、もっとも酒造りの量が多かった時は、どれくらいの従業員の方がいらっしゃったのですか?
喜市郎氏「やはりもっとも従業員がいたのは戦後です。毎年冬になると新潟から60~70人ほどの出稼ぎ蔵人を受け入れていました。北陸地方では雪により冬は日本酒が造れず、雪の降らない地域の酒蔵に出稼ぎすることが主流でした。しかし30年前ほど前から若者が出稼ぎをしなくなり、蔵人も減ったことから、急激に出稼ぎは終息しました。この現象もある種、日本酒が日本の歴史とともに生きているという証ですよね」
江戸から明治・戦後にかけての波瀾万丈な移り変わりの中で、飯沼本家は地元・酒々井の住民とともにその歴史を歩んできました。
そしてその歴史の中に、鉄道を自ら引くなど、その時代に応じて革新的な試みを行う姿には、「ヒストリー以上に、フューチャーを語り、創造していく」という飯沼本家のスタイルが現れています。そして「母屋を掃除しているとこんな文献がみつかってね」と懐かしそうにお話する飯沼喜市郎さん・幹子さんの背後には、飯沼本家の長い歴史を支えた人々の、言葉では語り尽くせない想いが詰まっているようでした。
後半では、15代当主・飯沼喜市郎さんが飯沼本家を引き継いだ後のエピソードをお伺いしながら、飯沼本家に引き継がれる哲学を探ります!
(取材・文/石根ゆりえ)
sponsored by 株式会社飯沼本家
[次の記事はこちら]