「一麹、二酛、三造り」という言葉があるように、酒造りにおけるもっとも重要な工程は麹造り。それに続く、高い技術と繊細な感覚の要求される作業が、酛造り(酒母造り)です。とても複雑で、まだ解明されていない部分の多い工程です。

今回は、丹波杜氏をはじめとする灘の酒造関係者に「生酛(きもと)」と「山廃酛(やまはいもと)」ついて、聞いてみました。

生酛系酒母と速醸酛の違いとは?

日本酒の醸造に必要な酒母は「生酛系酒母」と「速醸系酒母」のふたつに分けられます。いわゆる「生酛」「山廃酛」は、前者の生酛系酒母です。ふたつの違いは、酒母の中で、どのようにして乳酸を得るかということ。生酛系酒母は自然の乳酸菌を育てることで乳酸を得ますが、速醸系酒母はあらかじめ用意した乳酸を添加します。そういう意味では、前者は"乳酸育成酛"、後者は"乳酸添加酛"と言い換えられるかもしれません。

速醸系酒母は、安全かつ失敗の少ない優れた醸造方法です。発酵に必要な日数を大幅に縮めることができる上、それに伴って酒質が劣ることもありません。つまり、一定以上の品質の酒を、低いコストで造ることができるのです。

生酛系酒母の利点は、速醸系酒母では得られない、力強い酵母を育てられること。この違いが生じるのは、天然の乳酸菌が作用しているためと考えられています。酒母に含まれる乳酸菌は、酵母が生み出すアルコールの影響によって、徐々に死滅していきますが、それまでは酵母が成長するための環境を整える、とても重要な存在です。

生酛系酒母の魅力とは?

自然と科学が調和した、人類の技術が追求されていることだと思います。

速醸系酒母では、ある程度の安全性を担保されているぶん、酒質を高めることに集中できますが、生酛系酒母では、腐造のリスクに細心の注意を払うなど、自然を制する技術が求められるのです。速醸系酒母をモーターボートに例えるなら、生酛系酒母は風を操って波を制するヨットのようなものかもしれません。

日本山海名産会図に描かれた江戸時代の酒造りの様子

同じ醸造酒であるワインの造りにおいては、原料のブドウに、アルコール発酵に必要な糖分と酵母が含まれているため、人の手をあまり加えなくても、アルコールを生成することができます。しかし、日本酒の原料である米には糖分がないので、人間が糖化を促さなければならないのです。

生酛系酒母の大きな特徴は、自然界の多様な微生物の働きによる発酵ですが、彼らはどこからやってくるのでしょうか。

生酛造りの要、半切りと櫂

酒母室の壁、空気中、仕込み水、原材料......さまざまな要因が挙げられますが、そのひとつに、半切り桶や暖気樽をはじめとする木製の道具もあるでしょう。仕込み前にすべての道具を熱湯で殺菌処理するのですが、どこからともなくやってきた微生物たちは、エサを求めて、醪の中で繁殖し始めるのです。

木目などの細かい隙間に潜んで生き残った微生物たちが、なんらかのきっかけで息を吹き返してくるからだという話を聞いたこともあります。いずれにせよ、まで解き明かされない生命の神秘を垣間見ることができるのも、生酛系酒母の魅力でしょう。

生酛と山廃酛、どちらが先に始まった?

「生酛」と「山廃酛」は、暖簾分けした本家と分家のような関係にあります。

丹波杜氏が酛摺りをするモノクロの写真

山廃酛とは「山卸廃止酛(やまおろしはいしもと)」の略称です。米の糖化を早めるために蒸米を櫂棒ですり潰す作業のことを「山卸(やまおろし)」と呼びます。つまり山廃酛は、その作業を省いて造る酛のことです。言葉が誕生したのは「山廃酛」が先で、「生酛」という言葉は、その後に名付けられたといわれています。

過去の記事でも紹介したように、江戸時代、もしくはそれより前の時代においては、山卸を行わない酛造りが一般的だったため、山廃酛のほうが先に始まっていたといえるかもしれません。

生酛系酒母で造られた日本酒の特徴は?

一般的に生酛系酒母の日本酒は、コクがあって、複雑で濃厚な味わいといわれています。

グラスに注いだ日本酒

実際に、旨味のもとになるアミノ酸の分析値を比べてみると、生酛系酒母と速醸系酒母では約3倍の差が出るため、生酛系酒母のほうが旨味の多い酒になると思われがちですが、酒母の割合が酒総量のおよそ7%ほどであるとすれば、酛の違いによるアミノ酸の差はごくわずかしかありません。

使用する酵母、麹の酵素力、醪の経過、アルコール添加の有無、搾るタイミング、搾ったあとの濾過や貯蔵......アミノ酸の生成に関わる要因はいくつもあるため、完成した酒から酒母の特性を見出すのは、ほぼ不可能といってもいいでしょう。酒母の種類よりも、酒母が仕上がってからの醪の育成や搾ったあとの扱いによって変化する部分のほうが大きいと思われます。

生酛系酒母の強みは、力強い酵母のおかげで雑味の発生源が除去され、スッキリとした端正な酒質になることです。速醸系酒母の特徴である、爽やかで清涼感のあるスッキリさとは異なる、キリッと締まった押しの強いスッキリさが感じられます。

たとえば、醪のアルコール度数が高くなってくると、酵母はみずからが造ったアルコールに耐えきれず、その働きを弱めてしまいますが、生酛系酒母で育てられた酵母は、こうした環境下でも、充分に活躍できる生命力をもっているのです。これこそ、生酛系酒母と速醸系酒母の決定的な違いでしょう。酵母が弱ってしまうと、雑味や異臭の要因が出やすくなってしまい、過度なアミノ酸が生成されてしまうこともあるのです。

ただし、ここでいう"雑味"とは、飲む人によっては"旨味"や"複雑な味わい"とも解釈される曖昧な言葉。悪いものとは決して言い切れないものです。

生酛と山廃酛、どちらが大変?

山廃酛のほうが重労働を伴います。生酛は、あらかじめ米を磨り潰す作業(山卸)に手間がかかるぶん、後半の攪拌作業が楽になりますが、山廃酛の櫂入れはとてつもなくハードです。

山卸を省く大きな利点のひとつとしては、使用する道具を大幅に省略できることが挙げられます。

山卸の作業で使われる木桶が壊れてしまうと、素人が修復するのはほぼ不可能です。しかし、木桶を修繕できる職人は、現代にはほとんどいません。使い終わった後の充分な殺菌や、カビ対策として行なう渋塗り渋塗り、乾燥で型が崩れるのを避けるための水かけなど、定期的なメンテナンスを続ける必要があります。桶のメンテナンスひとつとっても、いちど途絶えれば引き継ぐことのできない、大事な技術なのです。

ちなみに、渋塗りはなかなか厄介な作業で、独特の異臭に慣れるまでの憂鬱な時間や、蔵の周囲ににおいが広がってしまったときの近所からの苦情など、意外な苦労が伴います。これらの準備や後始末を行なう裏方の作業は、人目にはつきません。

「生酛」と「山廃酛」の違いを挙げることは簡単ですが、それは消費者にとってさほど大きな意味のあるものではないと思います。「生酛だからこういう味になる」といった、偏った主観にとらわれると、日本酒のさまざまな魅力を見失ってしまうかもしれません。いろいろな観点から、日本酒の魅力を見出していきたいですね。

(文/湊洋志)

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