およそ40年前まで、日本には、何年も熟成させて楽しむ日本酒がほとんど存在していませんでした。しかし、日本酒の歴史を振り返ると、鎌倉時代にはすでに3年熟成の酒があり、江戸時代には5~10年寝かせた熟成古酒が造られています。

明治時代になると、政府の税制によって、年を越して熟成させる酒が姿を消してしまいますが、昭和40年代に入ると、熟成古酒に挑戦する酒蔵が再び現れ始めました。この"熟成古酒の失われた100年"を、日本酒造りの歴史とともに振り返っていきます。

前回の記事では、歴史書にみる熟成古酒の楽しみ方について紹介しました。今回は、明治時代の厳しい酒税制度についてみていきましょう。

酒を造った時点で課税される「造石税」

明治時代になり、日本に洋酒(ワインやビール)が入ってくると、開明的な人たちは「日本酒は狂薬であり、原料の米を浪費するだけで、害ありて益なし」と日本酒を切り捨て、「ビールやワインは身体に有益であるから、ビールやワインの醸造を政府が奨励・保護してわが国の産業に育て、日本酒にとって替えるべきである」などと日本酒排斥論と洋酒賛美論を展開します。

そのような考えに影響を受けた明治政府は、酒造税を禁止税的な性格のものとして、日本酒には厳しい酒税を課す一方で、ビールやワインの醸造には課税を免除したのです。

現在の酒税は、販売を目的として酒を蔵から出荷すると税が課せられる「庫出税(くらだしぜい)」ですが、明治政府が実施した「造石税(ぞうこくぜい)」は、醪を搾って酒ができあがった時点で税が課せられるものでした。

このふたつの税は大きな違いがあります。

庫出税の場合は、蔵に貯蔵されている酒に税金はかかっていないので、売れ残ったり、熟成のために何年間も貯蔵していても、それを売らない限り酒税を払う必要はありません。

ですが、酒を搾ると同時に課税される造石税は、蔵に貯蔵されているすべての酒に酒税がかかるので、その酒が売れる売れないにかかわらず、一定期間内に酒税を納めなければなりません。酒蔵からすれば、販売より先に酒税を支払うこともあるため、資金繰りが大変で、厳しい経営を迫られることとなります。

当時は酒の貯蔵に木桶が使われていたため、貯蔵中の酒が少しづつ漏れ出し、いざ出荷しようと桶のふたを開けたら中は空っぽ!ということが起こったり、貯蔵中の酒が腐る事故も多発していたそうです。売る酒がなくなってしまう悲劇に加え、すでに納付した酒税は戻ってこないという、まさに「泣きっ面に蜂」という事態です。

「一滴の不正も見逃さない」という厳しい検査

地租とともに明治政府の主たる財源とされた酒税は、明治11年(1878年)時点で租税収入の12.3%に留まっていました。その後、酒税は何度も増税が繰り返され、日清戦争後の明治32年(1899年)には、地租の35.6%を上回る38.8%にまで達します。「日本の国運をかけた日清戦争、日露戦争は、日本酒の税金で戦った」といわれるのは、これが理由です。

酒蔵を苦しめたのは、この過酷な酒税に加え、酒造りの現場における厳しい検査制度と、税務官吏による厳しい取立てです。地租と並ぶ国家財政の柱である酒税を、少しでも多く確実に徴収するため、国は酒造検査制度を制定し、想像を絶する厳しい取り立てを行いました。

造石税は、酒を搾った時点の量に対して課税するというもの。酒税の負担を少しでも減らしたい酒蔵は、検査時点の量を少しでも少なくしようと、搾る直前の醪の一部を隠すなどの不正を行う可能性があります。

そのため、酒造検査制度には「一滴の不正も見逃さない」という国の強い意思がありました。酒造りに入ると、米の入荷に始まり、精米、浸漬、蒸米、麹づくり、醪の仕込み、搾りに至るまで、すべての工程における操作と、それぞれの量を正確に記帳することを義務付けています。

酒造りの期間中、蔵を頻繁に訪れる税務官吏はその帳簿を精査し、少しでも不正が行われていれば、たちまちばれてしまうという、極めて緻密な制度でした。

酒を売り切りたい蔵が増え、熟成酒は姿を消した

酒造検査制度の制定にあたって、酒造りの工程における操作や量の変化などを正確に把握する必要があることから、国がまず行ったのは酒造りのマニュアルづくり。

ですが、江戸時代は酒屋万流といわれたほど、その地方や杜氏の流派による違いがあり、酒の造り方は千差万別。とてもマニュアルなど作れない状況でした。すると、国は苦肉の策として、全国の酒蔵に醸造法を強制的に公開させたのです。

江戸時代の最先端で主要な産業のひとつであった酒造業は、技術力の差がそれぞれの酒蔵の存亡に関わってきます。新しい技術の開発と既存技術の流出には、細心の注意を払っていました。

中世の酒造り技術や、火入れ・殺菌の方法などが述べられている『御酒之日記』は、文献として残る最初の酒造技術書です。その冒頭には「能々口伝(ようようくでん)、秘すべし、秘すべし」と、その技術を絶対に外へ漏らさないよう強く念を押しています。

同じく『童蒙酒造記(どうもうしゅぞうき)』でも、酒の雑学に始まり、酒の造り方、貯蔵の仕方、腐った酒の再生法に至るまで、実にさまざまなことが具体的に詳しく書かれています。その第四巻「酒造りの諸流派の口伝、ならびに名酒の造りかた」、第五巻「酒の造りかた口伝、酒の直し方口伝」では、「この本は決して他人に見せてはいけない」と、特に厳しく釘を刺しています。

しかし、少しでも多く酒税を確保するとともに抜け道を見逃さないよう、このような秘伝や口伝の技法もすべて公開させられることに。

また、税務官吏による検査は想像を絶するもので、少しでも数字が合わないケースがあると密造を疑い、蔵中はもちろん、その家族の住居の押入れの中、さらには隣近所、親戚にまで捜査の範囲を広げてたのだそう。

この厳しい検査に耐えきれず、酒造業者で組織された酒屋会議は元老院に対し、「酒屋は高い酒税に苦しむだけではなく、密造を疑う官吏による常識の範囲を超える厳しい捜査によって、生活の安寧を損なわれ、我々は疲労困憊して、その苦痛から事業にも悪影響が現れ、生計まで危うくなっている」という酒税軽減請願書まで提出したほどです。

このように、国の方針に忠実な税務官吏たちの厳しい検査と造石税により、酒蔵は1日でも早く酒を売り切ろうとするようになります。その結果、年を越して貯蔵される酒はなくなり、ましてや、その酒を何年間も貯蔵・熟成させるという発想は完全になくなってしまいました。

高度成長期にようやく復活した長期熟成酒

第二次世界大戦が終わり、日本が高度成長期に入った昭和40年(1965年)ごろになると、日本酒の長期熟成に挑戦する酒蔵が現れます。ですが、国による厳しい生産量の制限などもあり、なかなか本格的な取り組みは難しかったのが現実でした。

そんななか、長期熟成酒への関心が高まるのは、昭和60年(1985年)に長期熟成酒研究会が発足し、わずかながら販売を行っている蔵や、試験的に取り組み始めている蔵の酒を持ち寄り、試飲、意見交換、研究発表などを行う活動が始まってからのことでした。

(文/梁井宏)

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