およそ40年前まで、日本には、何年も熟成させて楽しむ日本酒がほとんど存在していませんでした。しかし、日本酒の歴史を振り返ると、鎌倉時代にはすでに3年熟成の酒があり、江戸時代には5~10年寝かせた熟成古酒が造られています。
明治時代になると、政府の税制によって、年を越して熟成させる酒が姿を消してしまいますが、昭和40年代に入ると、熟成古酒に挑戦する酒蔵が再び現れ始めました。この"熟成古酒の失われた100年"を、日本酒造りの歴史とともに振り返っていきます。
前回の記事では、明治時代の厳しい酒税制度について紹介しました。今回は、長期熟成酒研究会の発足と、再発見された熟成酒の魅力についてみていきましょう。
熟成年数と官能評価にズレがあるのはなぜ?
「フレッシュでフルーティーな吟醸酒こそ最高の日本酒である」とする吟醸酒ブームの真っただ中、その対極とも言える熟成古酒の製造に関する技術交流と市場の開発を目的に、酒蔵が集まって長期熟成酒研究会を結成したのは、昭和60年(1985年)のこと。当時は「時代錯誤もはなはだしい」と言われ、相手にされない厳しい状況でのスタートでした。
それでも、石川県の酒蔵・福光屋では、満3年以上熟成させた吟醸酒「福正宗オールド」が、岐阜県の酒蔵・白木恒助商店では数年間熟成させた「達磨正宗」が販売され、そのほか数十社の酒蔵でも、熟成古酒を商品として販売しました。
しかし、その一方で、日本酒を長く熟成させる意味や、その効果などについての学術的な研究はほとんどされていませんでした。
そこで、長期熟成酒研究会は内外の学識経験者を招き、熟成に価値をもつワインをはじめ、酒類全般の勉強をしながら、少しずつ酒の熟成に対する知識を深めていきます。
以来、30年以上にわたり熟成古酒の楽しみ方を広く啓蒙する活動を続けてきた結果、近年では熟成古酒への関心が高まり、長期熟成酒研究会が毎年行っている「熟成古酒を楽しむ会」への参加者数も増加しています。
そんな長期熟成酒研究会が発足して間もないころ、研究会ではお互いの蔵の酒を持ち寄り、都道府県別に北から南へと順に、それぞれの蔵ごとに酒をまとめて利き酒をしていました。しかし、このやり方では不十分でした。
それぞれの蔵ごとの特長はよく分かりますが、吟醸タイプの5年熟成酒や甘口の7年熟成酒、味の濃い10年熟成酒など、造り方の違いや熟成年数が異なる酒がランダムに並ぶため、それぞれの味や香りの違いが蔵の個性なのか、熟成年数の差によるものかを判断することが難しかったのです。
そのため、熟成年数の若い酒から順に並べて利き酒をするようになりましたが、ここで思わぬ問題にぶつかります。熟成年数の若い酒から順に並べているにもかかわらず、無色透明に近い酒から、黄金色、琥珀色など、さまざまな色の酒が不規則に並んでいるのです。
見た目の印象と実際に口に含んだ時の味や香りのズレが大きく、熟成年数と官能評価が一致しませんでした。
「熟成年数は長いのに、官能的には熟成がそれほど進んでいないように感じる酒がある。その一方で、数年を待たずに色、味わい、香りが大きく変わる酒もある」という、新たな問題に直面したのです。
それでも、やり方を変えながら利き酒を繰り返すうちに、熟成年数と官能評価による色、味わい、香りの関係は、単純な相関関係にないことがわかってきました。さらに、その酒の熟成年数だけにとらわれて、その造り方の違いに目を向けてこなかったことに気づきました。
そこで、吟醸酒とそれ以外の造り方をした酒をグループに分け、それぞれのグループ内で、熟成年数の若い順に並べて利き酒を行ってみました。すると、この仮説は見事に的中。それぞれのグループ内で、熟成年数と官能評価による熟成との相関関係はピタッと一致しました。
この発見をもとに、米をよく磨く吟醸酒的な造り方のグループを「淡熟タイプ」、米をあまり磨かない吟醸酒とは対極な造り方のグループを「濃熟タイプ」、その中間に位置するものを「中間タイプ」と名付けました。こうして、熟成古酒を3タイプに分けることで、共通の認識を持って議論ができるようになり、熟成古酒の研究と開発は大きく前進することになったのです。
ある時点で突然すばらしい酒になる「解脱」という現象
熟酒古酒のもうひとつの疑問は、「うまく熟成せず、味や香りがむしろ悪くなった酒なのに、ある時点で複雑な味が調和して、すばらしい酒に変化するのはなぜか?」ということでした。
熟成古酒の評価で特に難しいのは、酒を長く貯蔵することで変化した色や香りが、劣化によるものか熟成によるものかを見分けること。特に濃熟タイプの酒は、さまざまな成分を多く含んでいることから、変化の具合はより大きく表れます。
この疑問について研究を進めると、日本酒の熟成には、想像もしなかったすばらしい可能性が秘められていたのです。
多くの成分を含む濃熟タイプの酒は、貯蔵中にもゆっくりと変化を続けていて、色が濃くなるとともに、ある時点からオリが発生して濁り始めます。このオリの出方は、もともとの酒に含まれる成分の複雑さと量で大きく差が出ます。
その酒を何年間も静かに保管すると、オリは徐々に下がり、すべてタンクの底に沈みます。すると、上澄みの酒はすっきりとした琥珀色の輝きを増し、得も言われぬ香ばしい香りを放ち、調和の取れた奥深い味わいに変化します。それは、蝶の幼虫がさなぎとなり、やがて想像もできないほどの美しいアゲハ蝶が飛び立つのに似た、劇的な変化です。
長期熟酒研究会では、その現象を「解脱(げだつ)」と命名しました。熟成古酒が解脱を迎える時期は、その酒の造り方と熟成温度によって変わります。基本的には、含まれる成分が複雑で多いほど時間はかかりますが、よりすばらしい酒へと変化します。
江戸時代の元禄10年(1697年)に刊行された、食べ物の百科事典とも言える本草書『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』にはこんな一節があります。
新たに醸成したものを新諸白、年を越えたものを諸白の古酒という。以上は皆、臘月(ろうげつ・※旧暦12月、陽暦1月)、および春に造醸するもので、甕壺(おうこ)に収蔵(おさめ)て、年を経て置くことができる。三、四、五年を経た酒は味が濃く、香りが美(よ)く最も佳い。六、七年から十年を経た酒は味が薄く、気が厚く、色も深濃となり、異香があって尚佳い。
このような酒は、伹(とも)に和州・摂州(大和・摂津)の造りであって、余の州のものは相及ばない。然れども貯える量が少ないので、価も貴いのである。
これは、まさに解脱した酒について表しています。江戸っ子たちは何年間も長く熟成させて、解脱をした本当にうまい酒を楽しんでいたと言えるでしょう。
(文/梁井宏)